天聖経: 第280話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第九篇 家庭教会と氏族的メシヤ

第三章 教会長の道 

第一節 教会長の使命と責任 10-16

第二節 教会長の公的生活 1-3

 

10 復帰摂理に責任をもってきた神様は、最もかわいそうな方です。人々は、受ければ受けたものだけで満足しません。受ければ、もっと受けたいと思うのです。どこから受けたいと思うのでしょうか。ある中心存在を通して受けたいと思うのです。ですから、今後ついてくる人々が、すべて受けることばかりを願う人々になれば、神様も困ります。愛であれば愛を、もしくは貴いものであれば貴いものを自分のものにしようとすれば、本当に困るというのです。

それで神様は、信じるのも自分のために信じるのではなく、相対のために信じなければならず、順応するのも自分のために順応するのではなく、相対のために順応し、愛するのも自分のために愛するのではなく、相対のために愛しなさいという、相対に対する意識を強化せざるを得ないのです。ですから、私たちは、このような公的な基準で信じなければならず、公的な基準でために生きなければならず、公的な基準で愛さなければなりません。このような公的な基準を立てなければなりません。このような公的なものを自分と結びつけようとすれば、より公的な自分にならなければならないのです。

 

11 責任者の使命は、み言を伝えて蒔くことだけではなく、刈り入れることです。み言を伝えるのは蒔くことであり、蒔いて刈り入れなければならないのが責任者の使命です。言うなれば、生えた芽に水をやって手入れをし、除草作業もして花を咲かせ、実を結ぶようにしなければなりません。これがある期間が過ぎて完全に熟し、収穫するときに、初めて責任者としての使命を完結するのです。

ところが、他の人が植えておいたものを、新しい責任者が再び植えようとしてはいけません。これをよく手入れをしてあげなければならないのです。たとえ他の人が植えたとしても、よく育てて収穫すれば、それは天の倉庫に入るのです。しかし、このようなことを考えず、過去の指導者の性格やその人に対する全体的な指導方法を把握することもしないで、自分のものを再び植えるので、死んでしまうのです。それではいけません。

 

12 主流は、どこまでも教会活動をする人です。教会を受け持っている人は、イスラエル民族のレビ族と同じです。レビ族には取り分がありませんでした。牧師に誰が月給をあげるのでしょうか。教会員が月給をあげなければなりません。教会長が自分の生計をつないでいくためには、教会員の前でそれ以上の祭物にならなければなりません。教会員が喜んで、自分の食べる御飯までもってきて、おかずまでもってくるほどに犠牲の祭物にならなければならないというのです。これが教会長の行くべき道です。それが、先生が天道を通して知った法度です。

 

13 天は、皆さんを基盤として、環境を再び変革させるべき責任を願うしかありません。そのため、公職にある統一教会の教会員は、涙とともに復帰の心情をもち、すべての部署でこのような運動を提示して、国家運動から世界運動まで展開しなければ、自ら涙を流したこの世界を天の国に転換させられる道がありません。

統一教会の人間、本当の食口は、涙を流す人であり、本当の責任者もまた、涙を流す人です。涙で堕落したので、涙によって復帰しなければなりません。自分を中心として泣くのではなく、神様を中心として、人類のために公的な涙をたくさん流さなければなりません。そのような涙を多く流した人であるほど、天の心情圏内に近いというのです。

 

14 信仰の道は、自分なりに判断した道、自分が望む道に行ってはいけません。信仰の道は、霊界に行っている数多くの宗教の指導者と関係を結び、高い段階に一つずつ上がっていかなければなりません。ペテロ、ヨハネ、ヤコブ、この三弟子以上の位置に進んでこそ、イエス様と関係を結べるのです。それは、皆さんが自分よりも位の高い人に会ったとき、その位の高い人に自分を直接紹介するのが失礼になるのと同じです。

このように考えてみるとき、皆さんは、自分が信仰生活をするに当たって、どのような道が早く栄光に接する道かということを知らなければなりません。それは、ある宗教の道に責任をもって歩んだ人々の道を、自らが探し出して、その道に従っていかなければならないということです。

 

15 私たちの平面的生活において、教会に行くとき、教会には必ず指導者がいます。教会の指導者は、自分の目的を達成しようとする人ではありません。もしそのような人がいれば、その人は指導者になれません。指導者には、中間の橋渡しの役割を果たす責任があるので、訪ねてくる教会員のために与えなければなりません。教会の指導者は、教会員のためにいるのですから、神様のみ旨を中心として、教会員の精神的な問題や生命の問題までも責任をもっているのです。

その指導者は、自分が責任をもった分野を中心として教会員を指導するのです。そうすれば、神様がその人を見てその人が高い位置にいるとき、教会員がその人と一つになれば、教会員も高い位置に進めるのです。その人が「私」の代わりに精誠を捧げてくれ、その人が私の代わりに私の罪を贖罪するために祈ってくれれば、私はその人の祈りによって、その人が立った位置に同参できるのです。人々が、恵みを受けた人の祈りを受けたいという理由がここにあります。このように橋を架けて訪ねていくのです。終わりの日になればなるほど、霊的な世界の内情が地上に現れるときになるので、宗教指導者の中には天の役事を直接行う人もたくさん現れるのです。

 

16 今日の人々は、人間に対してあまりにも無関心です。横的関係を中心として互いに尊重することが少ないのです。老若男女を問わず、人に対して煩わしく思っています。人を煩わしく思うようになれば、修養の道を行く人にはなれません。神様が復帰摂理をするとき、大韓民国だけを必要とするのではありません。世界の全人類をすべて必要とします。ですから、人に対する深い関心をもつのです。これは今まで、神様の摂理の中で最も重要な目標でした。私たちがその目標を達成するために集まった群れであるとすれば、すべての人に対して神様と同じ立場で関心をもち、向き合うことができなければなりません。表向きだけそのようにするのではなく、本心からにじみ出る思いをもって向き合うとき、縁の中の最高の縁が結実する場に立つことができ、関係を結ぶにおいても最高の関係を結ぶ場に立つことができるのです。

第二節 教会長の公的生活

 

1 先生は、朝の敬礼時間に少しだけ遅れても、その日は一日中、顔を上げて歩くことができません。先生はそのような生活をしています。その日一日、その一週間ずっと、心が落ち着かないのです。そのときは、その次の週に早く起きて十倍、百倍の精誠を捧げ、先週の過ちを蕩減するのです。このように条件を立ててこそ、心が平安です。先生はこのように生きています。ですから、どれほどかわいそうでしょうか。

先生が皆さんに話をするときの姿は立派に見えるかもしれませんが、そのために何週間、もしくは何ヶ月間、否応なく拘束される生活をしているのです。これが私的な生活ですか、公的な生活ですか。公的な生活だというのです。この宗教指導者の立場がどれだけ大変な立場か、皆さんは分かりません。

 

2 先生が生きているときは、先生の歴史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の歴史を書くでしょう。ですから、原理に公認されないことをしたならば、大変なことになるのです。なぜこのように生きたのかということを裏づけられる原理的内容があるかどうかが問題です。これがもしも間違えば、今まで成し遂げられたものをすべて失うことになるでしょう。ですから、責任者は難しいというのです。

責任者は、いくら疲れても、先に横になるのではありません。皆を寝かせてから横にならなければなりません。祈りを、するときも最後までしなければならず、信仰生活をするにおいても、食べられず、着られず、貧しく暮らしながら精誠を尽くす立場が責任者の位置です。そのようにすれば、「滅びよ」と言っても滅ぶことができないのです。

 

公義の道

3 皆さんは、箸を持って御飯を食べるときも、この食べることが公的か、私的かを考えなければなりません。大韓民国の三千万の民族のために御飯を食べ、世界人類のために御飯を食べなければなりません。大韓民国のための世界をつくろうとすれば、大韓民国は滅びます。アメリカのための世界をつくろうとすれば、アメリカは滅びます。世界のためのアメリカになってこそ、栄えるのです。

Luke Higuchi