天聖経: 第242話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第二章 心と体の修練
第六節 心と体の統一のための生活 15-25
祝福家庭の生活
15 祝福家庭は、心が神様と一体にならなければなりません。また、体が神様と一体にならなければならず、志が神様と一体にならなければなりません。そうしてこそ、創造理念を代表していく家庭になるのです。家庭がなくては「私」という価値を決定することはできません。私たちの個体には、神様の心情と希望が宿っています。私たちは、神様の心情の実体であり、神様のみ旨を代表した立場なのです。
16 祝福家庭は、数多くの民族の前に手本となり、数多くの教会の前に手本にならなければなりません。ヨセフ家庭が責任を果たせなかったことを、皆さんの家庭がよく果たすことによって蕩減復帰し、ヨセフの氏族が責任を果たせず、ユダヤ教が責任を果たせなかったことを、私たちが教団的に蕩減復帰して乗り越えなければなりません。そうして、家庭的失敗、氏族的失敗を国家基準を中心として、一時に蕩減復帰して乗り越えようというのです。
17 祝福家庭は、何をすべきなのでしょうか。神様の国と、神様の世界を相続し、神様の愛を相続しなければなりません。国を相続できる権限と、神様の愛を相続できる権限を、祝福家庭はもっています。今後、神様の国と神様の愛を相続できる特権的権限を許諾するのが祝福です。統一教会は、神様と神様の国を連結させる神様の愛を主張してきたので、心情の世界を語るのであり、心情の歴史を語るのです。ですから、家庭が問題になります。
18 祝福を受けた家庭は、天国創建において愛国者の家庭にならなければなりません。一切の生活は、寝ても覚めても天の命令によって動かなければなりません。霊界から見れば、この地上にいる祝福家庭は、「天の国のスパイ家庭」です。サタン世界で迫害を受けながら、自由のない隷属の環境で暮らす人たちです。ですから、そこで展開される基盤を拡大させるためには、自分の生死をかけて活動しなければなりません。
19 先生は、祝福家庭を先頭に立たせます。しかし、祝福家庭が苦労もせず、天地のために涙を流す生活もしなければ、意味がありません。涙なしに生きる人は偽者です。終わりの日には分かるでしょう。きょう、私たちもまた、涙を流さなければなりません。そうかといって、食べることのために泣いてはいけません。任された責任を全うするために泣かなければなりません。怨讐と対決している私たちは、怨讐の基盤を占領しなさいとの特別命令を受けた責任者として、その責任ゆえに夜寝ることができずに涙しなければならないのです。
20 祝福を受ければ、アダムとエバが堕落する直前の段階に復帰するようになります。それでは、何をすべきでしょうか。完成すべき段階が残っているので、神様の心情を理解していかなければなりません。この過程において、神様が堕落した人間を救うために苦労された内的な事情を体得しなければなりません。神様がこの地上に愛するひとり子を送られて、復帰歴史に責任をもっていくようにされたのと同様に、祝福家庭たちも自分の子女たちを祭物にして、サタンの世の中に出ていかなければなりません。
自分の息子、娘を背負いながら、ヨセフとマリヤがイエス様を抱いてエジプトに避難したような生活をしなければなりません。そして、愛する息子、娘がおなかをすかせているのを見て、「このような生活をするのは、この人類のためなのだから、私たちを愛されるお父様は保護してくださるだろう」と考えなければなりません。そうすれば、神様は、この世の中に実体として来られる主のような立場に彼らを立てられるでしょう。ですから、最後まで残って責任を果たさなければなりません。「私は祝福家庭なのだから、接待しなさい」と言っていては、敗れ去っていくのです。
21 祝福家庭が神様を中心とした生活、み旨を中心とした生活をしたでしょうか。できませんでした。自分を中心とする生活をしました。あらゆる生活の動機も目的も、み旨と神様であってこそ、そこに愛の園がつくられるのです。そうして、神様を主体にし、私たちは相対となって、与え合うことができなければなりません。そのようになれば、そこに神様の愛が介入するのです。
22 皆さんは、どんな人にならなければならないのでしょうか。天の家庭として生きていく原理原則がなければなりません。祝福家庭は、自分が属した氏族のために、つらい生活をしなければならないというのです。自分の周囲にいる家庭が眠るとき、一緒に眠ってはいけません。また、彼らが何かを食べるといって、一緒に食べてもいけません。祝福家庭は、その氏族内の家庭を育てなければなりません。子女を育てる父母と同じ立場で、その家庭が困難であれば、自分が困難を抱えている以上の困難を感じなければなりません。自分の近所で誰それが御飯を食べられずにいると聞けば、「いっそ、自分が飢えるほうがましであって、その人を飢えさせることはできない。到底私だけが食べることはできない」という心情をもち、その人に持っていってあげられる人にならなければなりません。
23 今日、祝福家庭は、赤ん坊を抱いて愛することができるのですが、その赤ん坊は何のために生まれたのでしょうか。神様のために生まれ、神様との関係を通して生まれました。夫を貴く思い、妻を貴く思い、二人でひそひそ話をしたり、どんなことをしたとしても、その相対は、自分たち同士で出会ったのではありません。公的な天道を前にして出会った人たちです。神様を介在させて出会った人たちです。
息子、娘が悲惨であればあるほど、そこに介在された神様が悲惨になるというのです。そうであればあるほど、精誠を尽くし、姿勢を整え、神様が信じ得る節操と志操をもっていけば、私たちの行く道は、絶対に塞がりません。必ず打開されるのです。それは、今まで先生が闘ってきた生涯路程を通して体験したことであり、否定することはできないのです。
24 先生が自分たち祝福家庭のために苦労したことを考えるとき、自分たちも家庭において、先生以上に苦労できる子孫をつくっておかなければなりません。それが原理観です。モーセに従うイスラエル民族が、モーセの道に従うためには、モーセのような苦労をしなければなりませんでした。モーセがその道に立ち上がるときまで、エジプトの風習の中で、イスラエルの人として守るべき伝統を失わず、選民圏を守らなければなりませんでした。ですから、モーセが指導者になるまでの生活は、イスラエル民族の誰よりも苦労する生活でした。イスラエル民族がモーセに仕えるとき、そのようなことを考えて、自分の生涯に困難があっても、モーセ以上に苦労はできなかったということを考えて荒野路程に出発したとすれば、三週間以内にカナンの福地に行くことができたというのです。問題はそこにあります。父母に侍る立場にあれば、父母より子女がもっと苦労しなければなりません。国においても忠臣がいれば、忠臣は国王よりもっと苦労しようとしなければなりません。それが天理なのです。
25 統一教会の祝福家庭は、自分の国を求めなければなりません。「私」の国を求めなければなりません。これを失ったのがアダムとエバです。アダムとエバが失ったので、これは必然的であり宿命的なことです。堕落したアダムとエバの宿命です。神様と真の父母が介在したので、宿命的な課題であり、お金でもできず、何かの手段ですることもできません。いつでも血を流して血の祭壇に立たなければならないのです。