天聖経: 第241話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第八篇 信仰生活と修練

第二章 心と体の修練

第六節 心と体の統一のための生活 3-14

伝道生活

3 神様は、復帰の道をたどって個人と家庭を訪ねてこられましたが、その個人と家庭から排斥されました。そのような神様が、再び世界に向かっていくその歩みをやめないので、「私」も行かなければなりません。その道が険しいからといって、その道に死があるからといって、悲しい曲折があるからといって嫌がってはいけません。私の父が行かれる道を私も行かなければならないので、父が大変であれば私も大変であることを望み、父が悲しめば私も悲しむことを望まなければなりません。これが統一の理念です。

このみ旨が、間違いなく父の立てられたみ旨であることを知るようになれば、いくら難しいことでも克服しなければなりません。また、いくら難しい事情があるとしても、そのお方は私の父であり、その事情は私の事情になるので、その父が立てられた伝統を相続し、その父の歴史と心情に接ぎ木されるためには、その父が苦痛を受ければ、私も苦痛を受けなければなりません。それは当然の道理です。

ですから、統一教会の教会員は、休まずにその道を行かなければなりません。ゴルゴタの丘でイエス様が死の場においても祈りながら伝道したように、統一教会の皆さんは、死亡の暗闇が襲うこの天地の中でも伝道をしなければなりません。地獄に行っても、その中で一番かわいそうな人を伝道しなさいというのです。

 

4 信仰生活は副業ではありません。本業の中の本業です。人に会っても、「私」が会うその人に今、み言を伝えなければ、その人が帰る途中でどうなるか分からないのです。その人がほかの人でなく、自分の父母や兄や姉だと考えなければなりません。機会を逃したときは、「み言を伝えなければならないのに、私が忙しくて申し訳ない。いつかもう一度会いましょう」と挨拶だけでもして、条件を残していかなければならないのです。

 

5 伝道は、生命を接ぎ木することなので、簡単ではありません。それで、一人についても精誠を尽くすのです。皆さんは、一生をかけて、何人に精誠を尽くしてみましたか。自分のために精誠を尽くしてくれる人が多いといって誇ってはいけません。精誠を尽くす人は福を受けますが、精誠を尽くしたものを受ける人は、福を受けられません。ですから、私が精誠を尽くしてあげなければなりません。精誠を尽くしてあげたのに、彼が言うことを聞かないと寂しく思ったり、悲しいと考えたりしてはいけません。天理の原則がそのようになっていると思いなさいというのです。そのようにできる人は絶対に悲しんだり、寂しく思うことがありません。

 

6 伝道は、出産するのと同じです。先生が経験してみると、一人の人を自分の息子以上に信じることができる人にするためには、息子を生むより三倍の努力が必要だというのです。伝道した以後にも責任をもたなければなりません。ほかの道に行った人が再び戻るには、衝撃的な感動を受けて涙を流すか、自分自ら悔しさや無念さを感じるか、今まで感じることができなかった心情が爆発する出来事が起こらなければならないのです。

 

7 伝道は誰のためにするのでしょうか。神様のためにし、人類のためにするのですが、「私」の息子、娘のために、そして私のためにするのです。私たちのためにするのです。ですから、誰も恨むことはありません。自分を恨まなければなりません。誰かに「しなさい」と言うのではなく、私がしなければなりません。そうしてこそ、私たちが願った生きる所が生じるのです。

 

8 伝道は、おなかのすいた人が御飯を求めるように実践しなければなりません。おなかがすいたときに御飯の貴重さが分かるように、そのような心をもってやってこそ、霊界からも協助して対象者ができるのです。本業としてしなければなりません。最も重要なものが信仰生活です。

 

9 アダムが完成の位置で結婚できなかったので、真の父母が復帰され、家庭を率いて世界をさすらいながら、天の側の家庭、天の側の氏族を編成し、サタン世界が奪っていった家庭、氏族、民族、国家、世界を一つにして取り戻してこなければなりません。それで伝道しなければならないのです。

伝道とは何でしょうか。サタン世界の血統を中心として生まれたので、その生まれた血統に新しく神様の血統を接ぎ木するのです。それを中心として、野生のオリーブの木をすべてなくしてしまわなければなりません。それが伝道です。天の国に行くための財産なのです。

 

10 神様の愛を受ければ、その愛を与えなければならないので、伝道をせざるを得ません。神様をお迎えする中間の立場に立とうとすれば、自分の土台が必要なので伝道しなければなりません。「私」の罪にまでも責任をもてる信仰の子女がいなければなりません。ですから、伝道は教会のためのものではなく、自分自身のためのものです。神様の心情をもってみ言を伝えれば、伝道ができるのです。

 

11 伝道するために歩き回れば、神様が同行してくれるのです。「伝道」(전도)を逆にすると何ですか。「挑戦」(도전)です。私が行く道に敵がいれば、追い払ってくれる神様が共にいらっしゃるので、万事が思いどおりになるのです。挑戦です。伝道、挑戦です!それができない人は、どんどん気力を失っていきます。挑戦しない人は、父が嫌い、祖父が嫌い、祖父の子孫、父の子孫、自分の妻、息子、娘まで好みません。父は父として、母は母として挑戦しなければならないのです。

 

12 皆さんが愛の種を植えておいて、それが大きくなれば、どうなるでしょうか。霊界に行って、自分に伝道された子孫たちは他人ではありません。木の枝に連結された、また他の新しい枝と考えるのです。一つです。何千年たった木、何万年たった木から芽が出てくる時、今年も出てきて、来年も出てきます。何千年、何万年たったその木の要素が、「私」と共に途絶えることはあり得ません。そこに連結されて、もっと大きくなるのです。

 

13 皆さんが我知らず、神様が慕わしくてじっとしていることができず、道に出て誰かに会うようになれば、彼と縁をもって自然に伝道ができます。誰か相対する人がいなくて独りでいる時は、神様が直接来られて共にいらっしゃるのです。自分の手をつかむと光ります。そのようなことが感じられます。光が「私」を擁護し、抱いてくれるのを感じるようになります。

そのような時、安らかな顔、平和に満ちた顔、幸福に満ちた顔をして、その心情をどのように体恤するかが問題です。心と体が膨らみ、細胞やすべてのものが満ち足りて、天の無限の愛に浸ることができなければなりません。手でリズムをとりながらメロディーを口ずさむとき、全宇宙が注目していることを感じる立場に立って、「お父様!」と呼び求めるその声、そのような心情圏が必要です。それを皆さんが体恤しなければなりません。そのようにすれば、伝道ができるようになっています。

 

14 「私」の心が動いて出発するとき、あるいは「伝道しよう」と思うとき、望んでする人がいて、仕方なくする人がいて、死ぬかと思って恐る恐るする人がいます。どのようにしなければならないのですか。歓迎してするのか、やむを得ずに、死ぬこともできずに仕方なくするのでしょうか、恐ろしくてするのでしょうか。どうなのですか。それは、みな落第です。

それでは、どのようにしなければならないのですか。心と体が主体と対象の関係になっていて、その相対の位置と環境条件が一致しているときは、喜びで出発するのです。悲しみで出発するのではなく、喜びで出発するようになっています。喜びの内容が最初であって、悲しみの内容が最初ではありません。堕落とは何でしょうか。悲しみの内容が最初であり、喜びの内容はスタートもしなかったというのです。復帰の運命の道を求めていく私たちとしては、み旨を喜びの内容として出発し、喜びの過程として消化させてこなければなりません。

 

Luke Higuchi