自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第36話

私たちが日本やアメリカ、南米、中東で創刊した新聞は大好評を博していましたが、いざ韓国となると、様々な制約により、新聞を作ることができずにいました。言論が自由化され、ようやく「セゲイルボ」を創刊できたのは一九八九年のことでした。統一教会が新聞を作るとい>っことで、世間でも話題になりましたが、やはり激しい反対が起こりました。アメリカと日本で新聞を作る際に浴びせられた非難の矢は、韓国でも当然のごとく向けられたのです。案の定、根拠のない憶測が飛び交いました。

「統一教会を宣伝する機関紙になるだろう」

「偏向に満ちた宗教記事が横行するだろう」

中には、「一年も経たないうちに廃刊するだろう」と、こき下ろす人もいました。しかし、正しい言論に対する私たちの思いは一貫していました。「言論は真理の代弁者であり、良心でなければならない」という信念のもと、一九八九年二月一日、「セゲィルボ」創刊号を百二十万部印刷して、第一歩を踏み出したのです。その信念は三十年が過ぎた今に至るまで、少しも変わっていません。

政権を握っている政党の不正を報道したという理由で、統一教会の関連企業が税務査察を受けるかと思えば、会社自体を倒産させられるという報復も受けました。一九七〇年代から散弾空気銃などを生産していた統一産業や、農業機械を専門的に生産する東洋農機械など、多くの企業が税務査察の標的となったり、廃業に追いやられたりしたのです。挙げ句の果てには、新聞の編集責任者を海外に飛ばせという要求も受けました。

しかし、私たち夫婦はいかなる妨害工作や懐柔にも決して屈せず、社会的正義と道徳性の回復のために旗を掲げ続けました。そうして、最後には「『セゲィルボ』が正しかった」と認められるようになづたのです。


「セゲィルボ」は激動の時代に産声を上げました。広野に立つI本の松の木のように、この上なく寂しい環境にありはしましたが、正義を貫き、不義は許さない新聞となりました。特定の宗派や主義、思想のためには筆を執らず、政治的理念を超えて、国民と国家、世界のために苦労することを惜しみませんでした。「セゲィルボ」は名実共に、世界中の人々のための、世界的新聞となっているのです。

万物は神様が下さったプレゼント

私は、まともな財布というものを持ったことがありません。幼少の頃はお金の必要性が分かりませんでしたし、少し大きくなってからも、南北分断に巻き込まれて命を守ることに忙しく、手ぶらで故郷を離れたため、お金はありませんでした。また、祖母と母は信仰を優先していたため、お金とは縁の薄い生活を続けていました。聖婚後、教会の献金はすべて教会や社会のために使われたので、やはり財布があっても、何の役にも立ちませんでした。

聖婚から六十年経った今もそれは同じです。そして、たまに値段の高い財布を見ると、ふと思ってしまうのです。

「あの中に入ったお金は、いつまでそこにあるのだろう?何のために使われるのだろう?」

お金が財布の中にとどまることより大切なことは、どこへ、誰のために、どのように使われるかです。そのお金の行き先が、その人の人生を物語ってくれます。聖書の創世記では、神様がアダムとHハを創造し、生めよ、ふえよ、地に満ちよ、万物を主管せよとおっしやっています。そのみ言に従い、私たちには万物を主管し、生活を豊かにする責任があります。

統一運動の今日の基盤は、韓国動乱の時期、釜山,凡一洞の土壁の家から出発しました。米軍の兵士を相手に肖像画を描く仕事から始め、ソウルに上京後は、切手を収集して販売したり、モノクロの•ブロマィドをカラーにして街頭で販売したりしてお金を集め、宣教資金として使つたのです。

本格的な経済活動の第一歩となったのは、一九六〇年代、日本式家屋で始めた統一産業でした。今でこそ、韓国は様々な製品を世界中に輸出していますが、六〇年代にはまだ、機械産業を興すなど想像もできないことでした。

ゴミ箱に入れられていた日本製の旋盤機械をわずかな金額で買い、倉庫に設置したのが統一産業の始まりです。その時、「世界一の工場を造ります」と天の前に祈祷して出発したのですが、これが鋭和散弾空気銃工場を経て、業界屈指の会社として成長し、防衛産業の一翼を担うようになったのです。韓国を代表する機械企業として、国を生かすために最高の技術を備え、さらには世界の様々な国に技術を普及させました。

また、「一和」という会社を設立して高麗人参製品を世界に輸出したのは、韓国が誇る最高


級の高麗人参を広く知らせ、世界の人々が健康な生活を送れるようにするためでした。

その後も、パィオニア精神を持って様々な分野を開拓し、今日に至るまでの約六十年間、韓国と世界の経済発展の一翼を担ってきました。しかし、私たちは単にお金を稼ぐことにとどまらず、すべての国が等しく技術を備えて貧困から抜け出せるよう、「経済の平準化」を実践することに主眼を置きました。

そのすベての根底に、ために生きる精神が存在しています。私たちは、恵まれない立場にいる人を気にかけながら生きなければなりません。豊かになれたことに対して感謝することも知らず、さらにお金を集めることだけに関心を持つ人になってはいけません。国や民族に深く感謝し、他の人を助ける人が、より偉大で豊かな者になるのです。

万物は、神様が私たちに下さった貴いプレゼントです。人間は誰もが、その贈り物を等しく受け取ることができなければなりません。一個人が万物を独占しようとし、一国家が科学技術や富を独占して他国を従属させることは、神棣のみ意に反しています。先駆けて努力し、技術を開発するとしても、豊かになった後は、自分よりも恵まれない人に技術を教え、相手も豊かに暮らせるようにしなければなりません。これが真の経済の平準化です。

私たちが誇るべきは、高価な財布に入っている真っさらな紙幣ではありません。その紙幣を誰のために、どのように使うかを悩み、正しく使うところにおいてのみ、本当の誇りが生まれるのです。


科学は人類の夢をかなぇるためのツール

「科学技術は人間がつくったものであって、神様がつくられたものではないですよね?」

時々、このように言う人がいます。自然は神様が創造されたものだけれど、科学は人間がつくったものであるという主張ですが、そうではありません。科学技術は、神様が人間に、万物を主管させ•るために下さった道具です。私たちは神様の心で自然を愛し、人類に役立つよう活用しなければなりません。その土台となるのが、科学技術です。

しかし残念なことに、科学技術は世界各地で、それぞればらばらに役割を果たしているだけでした。図書館に、一冊の論文として埋もれていることも多かったのです。私たちは、そのように散らばっていた科学技術を統一し、科学者たちが世界平和に寄与できる方法を長い間試行錯誤しました。そうして誕生したのが、「科学の統一に関する国際会議(ICUS)」です。

ICUSは、産みの苦しみと言ぇる紆余曲折を経て、一九七二年に第一回の会議がアメリ力のニユーョークで開かれ、それ以降、名だたる世界の碩学が継続して参加し、大きな反響を呼びました。

「現代科学の道徳的方向性について」というテーマを掲げた第一回の会議で、私たち夫婦は創設者として、科学は人類のために何をすべきかについて強調しました。


「科学は、人類の夢を実現することに目的があります。科学文明は本質的に、人類全体のものでなければなりません」

第二回の会議は一九七三年、日本の東京で「現代科学と人間の道徳的価値観」をテーマに開かれました。第一回の会議に参加したのは、七ヵ国から来た三十二人にすぎませんでしたが、第二回の会議には、十八ヵ国から六十人以上が参加しました。まさに、一年で世界的な大会になったのです。特にノーベル賞の受賞者が五人も参加したため、大きな注目を浴びました。

私たち夫婦が一九七〇年代の初めにアメリカに渡った時、アメリカ教会の年間予算は二万六千ドルでした。現在は言論、教育、社会奉仕などに数百万ドルを使っています。そのうちの一つが、科学技術発展のための支援なのです。

ICUSをスタートする際、一部の科学者は私たち夫婦に不信の眼差しを向けてきました。しかし、それでも私たちは有名な学者を招聘するために、多くの力を注ぎ続けました。

「教授、今度の科学者大会に参加してください」

私たちの信徒がある学者を訪ねて丁重に申し出たところ、こんな言葉が返ってきました。

「その大会の創設者は文鮮明牧師夫妻だと聞きました。私は彼らに反対しています」

しかし、その学者は数年後に会議に参加し、論文を発表しました。この会議の真の意味を理解したのです。


1003は、二0二〇年に第二十六回の会議を控えています(二月四〜五日、ソウルで開催)。これまでの中でも、特に十年目を迎えた一九八一年、ソウルで開かれた会議には、百ヵ国以上から八百八人の学者が参加し、世界最高峰の国際会議となりました。その場で私たちは、かって歴史に一度も実現できなかった、「技術の平準化」を掲げました。科学技術は神様が下さった人類共同の資産であり、特定の国が独占して他国を支配してはならないと強調したのです。

私たち夫婦が科学技術の平準化に関心を持って支援したのは、ほかでもありません。アフリ力や南米、.アジアの貧しい国々と技術を分かち合うためでした。先進国の科学技術を開発途上国に分け与えることで、科学技術の平準化を実現しようとしたのです。食糧の不足しているアフリカにソーセージエ場を建て、生産機械を無料で提供し、農業のやり方や家畜の飼育方法も教えました。

南米では牧畜が盛んですが、牛の排泄物の処理問題で、非常に深刻な状況にありました。そこで、牛を育てるだけではなく、_然をもっと豊かにするため、木をたくさん植えるようにしました。

また、ハワイのコナにはコーヒー農場を造りました。コーヒーの実を収穫するのは、非常に骨の折れる仕事です。害虫による大きな被害を受けたこともありました。コーヒーは実の中の生豆を焙煎して作るのですが、農薬をかけた実を使うのは健康に良くありません。そこで、農薬を使わずに害虫を退治できる方法を開発し、今では世界で最良のn1ヒーを生産しています。


中国と北朝鮮に自動車工場を建設するプロジェクトも推進しました。ドイツでは基幹産業となる自動車のライン生産やボーリングエ場などを買収し、アフリカや南米では手作業中、七の農家の負担を軽減させるため、農業機械工場を買収したり、農業機械を普及させたりしました。高い水準の航空技術と宇宙工学技術を開発するため、韓国タイムズ航空の設立も推進しました。

ICUSは諸事情から二〇〇◯年(第二十二回)で一且中断することになり、世界中の科学者やエンジニア、発明家、学者たちを落胆させてしまいました。歴史始まって以来、これほど重要で意義深い会議を開いた人物は私たち夫婦しかいないといって、会議を再び開催してほしいという訴えが世界中から寄せられました。そのため、長いブランクをものともせず、二〇一七年に会議を再開したのです。特に、二〇一八年に開かれた第二十四回の会議は世界各国から科学者が参加し、再会を喜ぶとともに、新しい科学の道を探求する貴重な場となりました。

私は科学者たちに訴えました。

「宗教と科学の対立をはじめ、世界の様々な問題を解決するには、まず宇宙の根本である神様と真の父母を正しく知らなければなりません。そうしてこそ、解決策を見つけられるのです」

今、私たちに必要なのは、国家や理念、宗教を超えて世界中の科学者やエンジニア、発明家が集まり、目の前にある科学技術を点検して、より良い方法を模索していくことです。その苦労が、人類の未来に幸福と平和をもたらすのです。


Luke Higuchi