自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第4話
山道で出会った野花のほほ笑み
「道がぬかるんでいるでしょうから、きようはお休みください」
雨上がりの朝、私の安全に配慮し、周りの人が寄せてくれる言葉です。
秋になると風が激しく吹き荒れ、冬になるとぼたん雪が降り積もります。休むべき理由と言
い訳は本当にたくさんありました。しかし私は、夜明けと共に家を出て、京畿道加平郡の天聖
山にある夫の墓まで登りました。
文総裁が聖和した後、私は朝夕、霊前に食事を捧げ、本郷苑まで往復しながら、心の中で夫
と多くの会話を交わしました。そうして、夫の考えが私の考えとなり、私の考えが夫の考えと
なりました。
侍墓の精誠を捧げた私は、一九七〇年代に夫が横断したアメリカの五千六百キロの道をたど
り、スィスのアルプス山脈にある十二の峰を訪れて、祈祷と暝想をしながら夫と霊的にさらに
近く交感しました。私は、夫と全世界の信徒に約束しました。
「草創期の教会に返り、神霊と真理によって教会を復興させます」
いつでも行きたい、とどまりたい場所、温かい母親の懐のような教会をつくることが、私の
夢です。それは、夫が描いた夢でもあります。
夫と私は、生涯を通して数多くのことを共に経験しました。私だけが心にしまっているエピ
ソードは、さらにたくさんあります。私はこれまで以上に、神様と人類のために献身しようと
決心しました。その日から、一時も休んだことはありません。
生命が躍動する春を迎えると、本郷苑までの道はたくさんの楽しみにあふれます。小道の両
脇には、人の腰の高さで曲がった松が生えており、その下には野花が咲き乱れています。花は、
冬には姿を消してしまいますが、春になると競うように、あちこちで咲き誇ります。山道で
足を止め、しやがんで草花をじっと見つめると、それらはたとえ振り向いてくれる人がいなく
ても、朝日を一身に浴びながら、非常に美しい姿を見せていることが分かります。その美しさ
に酔いしれ、花々をそっとなでてから、再び細い道を登るのです。決して軽い足取りではあり
ませんが、私の心は野に咲く花のように、平和で満たされています。
墓に到着すると、芝生に混じって雑草が生えていないか、山の動物が踏み荒らしていないか
、じっくり調べます。時と共に、その青さを深めていく芝生に囲まれた墓の前で、私は世の中
のすべての人が野の花のように美しく、松のように強い心を持ち、この芝生のように清く生き
ていけるように、一人、祈りを捧けるのです。
下り道では、野草や松の木に挨梭をします。
「自然の友たちよ、明日また会いましよう」
ゆっくりと下りていく細道は昨日と全く同じ道ですが、天気は毎日変わります。暖かな日差
しの日、風が吹く日、突然雷が鳴りどしやぶりの雨が降る日、ぼたん雪が空を覆う日……。そ
れでも私は、文総裁が聖和した二〇一二年九月以降、三年、千九十五日の間、一度も侍墓を欠
かしませんでした。
韓国の伝統で、亡くなった父母に捧げる孝行が侍墓です。父母の墓の西側に小屋を造り、雪
が降ろうと雨が降ろうと、食事もろくにせず、着の身着のまま、土葬された父母と三年間、共
に過ごすのです。その三年というのは、生まれた子女が、両親の全面的な保護と愛なくして生
きることのできない期間と同じです。ですから侍墓とは、言わば恩返しの時間なのです。
しかし世の中には、父母の恩を忘れて生きている人があまりにも多くいます。目の前にいる
自分の生みの親に対してさえそうであるならば、人類の苦痛と悲しみを蕩減(本来の位置と状態
に戻るために必要となる条件を立てること)するために涙の祈りを捧げている真の父母という存
在に、果たして気づくことができるでしょうか?
多くの人が、この地に顕現した真の父母とは誰なのか、その真の父母がどのような犠牲の道
を歩んできたのかを知らないまま、今もそれが自分とは関わりのないことのように生きていま
す。そのような人々に気づいてもらうために、文総裁の妻である私が、全人類に代わって三年
間、一日も欠かさずに侍墓の精誠を捧げたのです。
その精誠が終わった二〇一五年、私は世界の人類のために大きな贈り物を用意しました。歴
史始まって以来、最も意義深い「鮮鶴平和賞」が、長い準備の末にスタートしたのです。
苦しみに満ちたこの世界の架け橋となって
空が少し曇っています。明日の天気はどうなるのでしょうか。
「朝、にわか雨が降るそうですね、雲も多いですし」
見慣れた光景をまた目にするようで、思わず笑みがこぼれました。「世界平和統一家庭連合」
(以下、家庭連合。旧称は「世界基督教統一神霊協会」、以下、統一教会)の行事を行、つ日
は、雨がよく降りました。
四十数年前、アメリカのニューヨーク•ヤンキースタジアム大会では、突風を伴う夕立に見
舞われました。韓国・ソウルの蚕室で三十六万組の国際合同結婚式を行つた日も大雨が降りま
したし、「世界平和女性連合」の創設大会を行つた日も一日中、雨が降りました。しかし私は、
その雨をありがたい贈り物として受け止めました。
二〇一五年八月二十八日、この日もやはり、雨が降りました。夏の終わりに、雨の中、世界
のあちらこちらから多くの人々がソウルを訪れました。客人を気持ち良く迎えられるようにと
いう天の配慮からか、雨脚がしばしの間、弱まります。
地球の至る所から遠い道のりを越えて人々が訪ねてきたのは、「平和」のためでした。人は、
誰もが平和を願います。しかし、それは簡単には与えられません。もし、平和というのが田
舎道の石ころや山に生える木のようにありふれたものであるならば、人類の歴史にこれほど痛
ましい戦争や対立は、一度も起きなかったことでしょう。平和は、その代価として数多くの人
々の汗や涙を、そして、ときには血を求めます。まさにそれゆえに、私たちは平和を心から渴
望しながらも、なかなか実現できずにいるのです。
真の平和を実現するためには、決して見返りを望むことなく、自分がまず真なる愛を与えな
ければなりません。それは私が、そして私たち夫婦が生涯、歩んできた道でした。その道のり
において、聖和した夫の文総裁と人類への贈り物として私が準備したのが、鮮鶴平和賞です。
第一回の表彰式が行われる日、雨の中集まってきた人々は、まるで思いがけないプレゼント
をもらつた子供のように、すぐには興奮を抑えることができませんでした。好奇心が強い人は
目を丸くして、隣の人とささやき合いました。
「様々な人が集まりましたね。地球上には、こんなに多くの人種がいたのでしょうか」
この世界には多様な言語があり、多くの人種がいます。その日、表彰式の式場では、様々な
肌の色の人々が集う中、あらゆる言語が飛び交い、まるで言葉と人種の博覧会のようでした。
まだ私に会ったことのない人は、韓鶴子とはどういう人物なのかを気にして、壇上に座る私
を遠くから見つめました。ところが予想に反して、私の服が自分の着ている服よりも質素で、
どこにでもいる平凡な母親のような姿だと思つたのか、首をかしける人もいます。一方で、私
が人類のために準備した大きなプレゼントに対する感謝を込めて、視線を送ってくる人も多く
いました。
私は鮮鶴平和賞を創設する時、その根幹となる部分が何かを、人々が忘れないように願いま
した。
「平和の範囲を未来にまで広げなければなりません。たとえ私たちが直接会うことのない子
孫であつたとしても、彼らが幸せな人生を送れるようにしなければなりません」
未来のための平和とは何なのか、白熱した議論の末に、その意味と方向性が定まりました。
本当の平和とは、単に宗教や人種、国家間で起こる対立を終わらせることだけではありませ
ん。私たちを苦しめるものとして、分別のない環境破壊、そして未来への備えがないことが挙
げられます。それにもかかわらず、既存の平和賞は、今の世代の問題解決にばかりこだわって
います。
現在の問題を解決しながらも、同時に幸せな未来をつくり上げていくことこそ、私たちが今、
取り組むべきことです。その志を抱きながら、苦しみに満ちたこの世界の架け橋となるため、
鮮鶴平和賞は最初の一歩を踏み出したのです。