自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第20話
小さな帆船、荒波に立ち向かう
「いかにも何かが起こりそうな雰囲気だね」
「そうですね。世の中があまりにも騷がしくて……」
「この混乱に満ちた世の中を正す人が現れたら、どれほど良いでしょうか」
人々は暗い表情で、ささやき合います。道端や仕事場で飛び交う話は、みな不安に満ちたものでした。私は、その不安がすぐに消えることを知っていました。
私が聖婚式を挙げた一九六〇年を分水嶺として、国内外に大きな変化が続けて起こりました。国内では民主主義への渴望が噴出し、_由党政権が倒れました。国外でも、アメリカでジョン.F•ケネディが大統領に当選し、新しい時代への扉を開きました。
しかし、冷戦でできた溝はさらに深まり、東西の対立は深刻になるばかりでした。ソ連の支配を受けている東欧の共産主義国家でも自由化の波が起こりましたが、まだ時至らず、数多くの犠牲者を出しながら鎮圧されてしまいました。
人々は切実に願いました。
「このすベての混乱を平和へと変えてくれる、真の導き手を送ってください」
歴史の巨大な歯車が回るとともに、統一教会にも大きな変化が起こりました。それまで国中が統一教会に反対し、特にキリスト教があらゆる批判を浴びせかけていましたが、真の母を迎えることで、世界宗教へと跳躍する土台ができたのです。
それはまた、悲嘆に暮れた人類が、救いへの新たな希望を抱いて生きていける灯火となりました。さらに、それまで抑|±されてきた女性たちが目覚め、世界各地で真の女性運動が小さいながらも芽生え始めていました。
聖婚式を挙げて三日後、私たち夫婦は信徒と一緒に仁川の朱安農場に行き、その一角にブドウやィチョウ、ケヤキの木を植えました。
私はひょろっとした苗木を植えながら、祈りました。
「すくすく育って、いつか世の人々に希望の実を分け与える大木になりますょうに」
それは、単にその木のためだけに捧げた祈りではありませんでした。木は、人々に実を与え、休むことのできる安息の場を提供します。それは私たち夫婦の使命であるとともに、天に仕える信仰者が担うべき役割でもありました。
覚悟してはいましたが、新婚当初から、荒々しい波が容赦なく私に襲いかかってきました。夫婦の安らかな生活など、最初から期待することもできず、「平穏」という言葉を口にすることもできない状況でした。
結婚してから住んだのは、青坡洞教会の奥にある、古びた小さな部屋でした。そこから、一方は教会の礼拝堂に、もう一方はとても小さな裏庭に続く通路がありました。共用の台所は、床にセメントをとりあえず敷いただけの、昔ながらの造りでした。
私はエプロンをかけ、練炭のにおいが漂う狭い台所で、夫のために食事を作りました。初めてそこで食事を準備した日は気温が低く、手がかじかみましたが、毎日使っている台所のように立ち働き、慣れた手つきで包丁を持ちました。料理をいくつも手際良く作る姿を見て、少し前まで私をただの学生だとばかり思っていた人たちは、ずいぶん驚いた様子でした。
教会はいつも信徒で賑わい、夫婦水入らずで過ごせるような日は滅多にありませんでした。そのような中でも、私は夫と向かい合って座り、世界のために何をどのようにすべきか、たくさん話し合いました。
「そろそろ、食事になさいませんか」
信徒の声にふと時計を見ると、午後の二、三時になっていることがよくありました。昼時をとっくに過ぎていても、二人とも、食事をする考えすら浮かばなかったのです。将来、私が担うべきことが多くあり、韓国はもちろん、全世界が私の差し伸べる温かい手を必要としていることを感じていました。
長女の譽進から始まり、子供たちが次々と生まれましたが、生活していた家が、狭いだけでなく日本式の冷える住宅だつたので、出産してから体調を崩してしまいました。私は若くして、産後の病に苦しむことになったのです。
しかし、どれほど大変な環境だつたとしても、私はそれをしつかりと受け止め、楽しみを見いだしながら、幸せに過ごしました。背後で役事していらつしやる神様のみ手を片時も忘れることはありませんでした。
神様は私たち夫婦に、多くの子供を授けてくださいました。子供たちは多くの兄弟姉妹に囲まれ、狭い部屋の中で窮屈な思いをしながらも、お互いに愛し、大切にし合いながら育ちました。私は、子供たちのことを小さな神様だと感じていました。毎日頰にキスをし、温かい言葉を交わしながら、時間さえあれば子供たちのために祈りました。父母と子女が一つになり、共にあるとき、その場に神様が臨在されるのです。
私は聖婚後、十三人以上の子女を生もうと決心し、最終的に十四人生みました。最近では、子供をたくさん生むとおかしな目で見られることもありますが、私は神様の摂理を貴く考えていました。十二という数字には、東西南北の四方を完成するという意味があります。そこに一を加えた十三数は、中心の位置に当たります。それによって、摂理の完成を目指し、未来に向けて永遠に発展していける道が開かれるのです。
これは何も、私の代にだけ該当することではありません。神様は人類を救うために、歴史を通して中心人物を探し立てながら、摂理を導いてこられました。二千年前、イスラエル民族を通して原罪のない独り子であるイエス様を救世主としてこの地上に送るに当たっても、血統復帰のために多くの段階を踏む摂理を展開されました。そのように複雑になった血統を、神様の摂理のために、私の代で一つの血統として復帰しなければならないのです。
神様の復帰摂理がこれ以上延長してはならないので、私は天を中心とした善なる血統を正しく探し立てると決意しました。複雑な血統を、神様を中心とした純血の、真の血統へと復帰するためには、命を懸けて新しい命を生み出し、死の峰を越える苦痛に耐えなければなりませんでした。ですから私は聖婚後、たとえ何年かかろうとも、十三人以上の子女を生むと決意したのです。
体は非常に大変でしたが、私は毎年のように子供を生み、四回にわたって帝王切開をしました。普通、帝王切開というのは二回以上することはできません。三回目の手術を受けると言った時、担当医は母体が危険にさらされるといって、躊踏しました。それでも、私が断固として生もうとするので、理解できないといって、夫と一緒にまた来るようにと言うほどでした。
結局、私は四回手術をして子供を生み、天と交わした約束を果たして、責任を完遂しました。最後の帝王切開をしてからもう三十七年が過ぎましたが、いまだに痛みの記憶が残っています。
私が命を懸けて生んだ子供たちですが、私が彼らに願っているのは、父母でも手伝うことのできない、天が願われる各自の使命と責任を果たすことです。ですから私は、きようも彼らのために祈るのです。