平和経 第8話

真の宗教とはいかなる宗教か

ですから、今日、宗教というものは、その本郷の世界に入っていくことができるように、その法度に合わせる訓練をする所なのです。ですから、歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教は、自分自らを否定する修行をしました。なぜ「犠牲になり、奉仕しなさい!」といったのか、今まで知らなかったのです。なぜ犠牲になり、奉仕をしなければならないのかといえば、本然の世界がために生きる本郷だからです。ですから、その世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって、高等宗教であるほど犠牲と奉仕を強く求めたのは、歴史時代に、神様が歴史過程を通じて摂理してきたものであることを、ここで知ることができます。

それでは、真の宗教とは、いかなる宗教でしょうか。それは簡単です。神様のみ旨のとおりに行う宗教です。神様のみ旨は何でしょうか。神様のみ旨は、宇宙を救うことです。言い換えれば、世界を救うことです。キリスト教の信徒たちは、これを知らなければなりません。神様のみ旨は、世界を救うことです。キリスト教を犠牲にしてでも、世界を救わなければなりません。それが神様のみ旨なのです。キリスト教の本然の使命は、神様のみ旨を成就することです。神様のみ旨を成就するためには、人類救済の責任を果たさなければなりません。それができないとすれば、審判台の前に立って、行くべき道を行くことができなくなります。私が探ってみると、そのようになっているというのです。

真の宗教はどこにあるのでしょうか。人類のために、自分の国はもちろんのこと、自分の教団や教会を投入できる宗教です。このような宗教は滅びません。私たちがわきまえて行くべきことは何でしょうか。国のために生き、世界のために生きるという原則によって見れば、真偽がはっきりと分かれることを、皆様は知らなければなりません。

「ために生きよ」という原則を立てざるを得なかった理由

神様はなぜ「ために生きよ」という原則を立てざるを得なかったのでしょうか。その内容と要因を、私がいくつかお話ししようと思います。真心から命を懸けて皆様を世話してくれた人がいたとしましょう。そこで皆様自身は、一〇〇パーセント世話になったとすれば、その世話に報いるために、五〇パーセントだけお返ししたいと思うでしょうか、それとも一〇〇パーセント以上お返ししたいと思うでしょうか。皆様の本心はいかがでしょうか。それは言うまでもなく一〇〇パーセント以上お返ししたいと思う本心があるので、今日皆様は、その本心に従って救いを受ける可能性があるのです。

ですから、知恵の王であられる神様は、ために生きる原則を立てざるを得なかったという事実を知らなければなりません。ために生きるときは、永生するだけではなく、繁栄するのです。そこから発展します。世話になると、その世話に報いるために適当にお返しするはずはありません。真心から命を懸けてそれ以上お返ししたいと思う本心をもっています。そのような心があるので、天国に行くことができるのです。

また、ために存在する原則を立てざるを得ない二番目の要因は何でしょうか。例えば、皆様の家庭に八人の家族がいたとしましょう。その八人の家族のうち、最も幼い弟が、家庭のために生きることにおいて、父や母、あるいは兄や姉よりも、その家庭のために生きるときには、どのような立場になるでしょうか。だんだんと高められ、中心的な存在として登場するようになるのです。

今日、宗教において教えてくれるすべての論理は逆説的なようですが、ために存在するこの原則に従って見ると、よりために存在すればするほど、より次元の高い中心存在になるのです。なぜ中心存在になるのでしょうか。ために生きる人は、万宇宙のために存在する神様に似ているからです。ですから、神様が自分に似た存在を、神様に代わる中心存在として立てるというのは妥当な結論です。心からために生きる主体の前に、心からために生きる対象となるとき、自然に中心存在にならざるを得ません。

今日、政治哲学で問題となるのは何でしょうか。支配者と被支配者の問題です。この問題をいかに解決するかということが今まで悩みの種でした。それがここで簡単に解決されるのです。よりために生きる立場に立った中心存在の支配を受け、主管を受けることを、今日の人間は恥ずかしいことのように思っていました。「人に支配されるなんて、たまらない!」と言いますが、とんでもないことです。心から自分のために生きてくれる人から完全に主管され、支配される立場が、どれだけ幸福な立場か、私たちは今まで考えもしなかったのです。

皆様が霊界に行けば、神様は、天地の中心存在としていらっしゃるので、そのお方に千年、万年、支配を受ければ受けるほど、それ以上の幸福はないことを知るのです。今日の私たちは、このことを知りませんでした。自分のために心から支配してくれる人、そのような方がいれば、そこに真の平和が存在するという事実を、私たちは全く知りませんでした。ために生きる存在は、中心存在になり、中心存在になることによって完全に統一的な環境をここから造成できるという事実を、私たちは知らなければなりません。

三番目の要因は何でしょうか。なぜために存在せよという原則を立てざるを得ないのでしょうか。今まで皆様は「愛」といえば、「それは私の愛である」と思いがちでした。「愛」といえば、それを皆様は自分の愛だと思っていました。いったい愛というのは、どこから来るのでしょうか。愛は自分から来るのではありません。理想も自分から来るのではありません。生命よりも貴く、何ものよりも価値のある愛と理想は、自分から来ることはないことを皆様は知らなければなりません。それは相対から来るのです。たとえ神様だったとしても、それは同じです。

このように相対が高貴であることを、今まで知りませんでした。ですから、生命よりも貴い愛と、生命よりも貴い理想は、どこから来るのでしょうか。自分からくるのではなく、相対から来るので、それを考えても、謙遜に頭を下げなければならず、ために生きよという法度を立てざるを得ないというのです。

教会を統一するための天の作戦

文某という人は、再臨主という名前のゆえに、たくさんの被害を被った者です。統一教会とは、いったいどのような教会でしょうか。簡単です。「統一教会」という名前のとおり、教会を統一してみますか。教会を統一することができるでしょうか。ローマ•カトリックと分裂して以来、ギリシャ正教は約九百五十年の歴史をもっていますが、いまだに一つになれずにいます。プロテスタントも四百以上もの教派に分裂し、互いに批判し合いながら数百年間争ってきました。それを統一するとは、統一教会の文某という人は気が少し狂つているのではないかと思うかもしれません。しかし、それは簡単であるという結論を下すことができます。何を通して可能なのでしょうか。ために存在するこの原則を通して可能なのです。

それで、私がこのような論法によって、今まで三十年間、既成教会からありとあらゆる謀略や中傷を受けましたが、じつとしていました。愚かでじつとしていたわけではありません。天理の法度は、あまりに厳然として冷酷な原則をわきまえていく道であることを知っていたので、黙々と何も語らずにきました。あたかも神様のように、あたかもイエス•キリストのように行かなければならないのです。

ですから、より次元が高い善のキリスト教の一人の生命が奪われれば、何百倍の損害賠償を請求し、打たれて取り戻してくるという天の作戦があることを私は知っていました。すべての既成教会が一つになって統一教会に反対したとしても、統一教会が善の立場であるときには、それを統一教会に損害賠償として渡さなければならないのです。理論的です。

神様は、個人を越え、家庭を越え、氏族、民族、国家、世界、さらにはこの天宙を越え、絶対的に神様のために生きるという一人の人、そのような一つの団体、そのような一つの民族、そのような一つの国家が現れることを願っていることを知らなければなりません。そのようなことを求めようとする神様のみ旨の前に、今日、統一教会は、そのような立場に進んでいこうと身もだえする姿であり、団体であることを記憶してくださることを願います。

ここにおいて、私たちは、理想が実現可能な段階的法則と公式の結論を下すことができます。夫は妻のため、妻は夫のため、父母は子女のために生きなければなりません。さらに、家庭は氏族や親戚のために生きなければなりません。また氏族は民族のために生きなければなりません。そして国家は、自国を中心として世界の国々を屈服させるのではなく、自国を犠牲にして世界のために生きようと考えなければならないのです。そのような国家を探し求めていることを知らなければなりません。

理想が実現可能な段階的法則

独裁者がほかにいるわけではなく、独裁主義帝国がほかにあるわけではありません。自国を中心として数多くの民族と国を踏みにじろうとし、あなたたちは私のために生きるべきだという、そこに神様の怨讐である独裁国家があるという事実を、皆様は知らなければなりません。

皆様も御存じのように、今日、共産主義は一九五七年を境界として、ソ連と中共が決裂し始めました。ソ連がスラブ民族だけのための世界共産主義を主張するようになり、そこから分裂するのです。永遠にソ連を宗主国とする共産主義を夢みたので、その共産主義は分裂せざるを得ません。しかし、ソ連共産主義が、世界共産主義のために犠牲になろうという愛をもつならば、中共とソ連は分裂しないのです。ソ連は、超民族的な思想基準の設定が不可能だったという事実を皆様は知らなければなりません。ですから、そこから崩れ始めたのです。

今日、民主主義の主導国家であるアメリカも、神様のみ旨から見た場合、どのように行くべきでしょうか。アメリカが民主主義の宗主国であるとすれば、民主主義を率いて世界のために生きることにおいて、アメリカを犠牲にしなければなりません。しかし、世界を捨てても、アメリカ自体のために生きる立場に立ったので、アメリカは今日、悲惨な状態で苦しんでいるという事実を私たちは知っています。このような観点から、今後、世界を指導する理想と思想はどこにあるのでしょうか。国家と民族を超越し、自分の民族を犠牲にしてでも、世界を救おうという国家と民族が現れるならば、その当時は悲惨な立場で犠牲になるかもしれませんが、二十五世紀や三十世紀以内のある時に世界が必要とする、そのような時が必ず近づいてくるのです。ですから、その時に至って、世界を指導する国家になることを皆様は知らなければなりません。

今日、大韓民国も、自国だけを中心とした大韓民国にしてはいけません。アジアのための大韓民国を誰が設定し、世界のための大韓民国を設定し、さらには、神様のための大韓民国を誰が設定するのかという問題が、今日、悲惨な中に置かれている韓国国民が、直ちに求めていくべき道です。

そのような意味で、統一教会は、教会を犠牲にしていきながらも、先端に立って共産主義と闘っています。民主世界の没落を防ぐために、血のにじむ犠牲を覚悟し、努力しています。自分の団体が犠牲になっても、この厳粛な思想を残す土台の上には、神様が必ず共にいらっしゃるでしょう。ガリラヤの海辺で民族の反逆者の罪を着せられ、三十代の育年として死んだイエス様が、世界を指導する民主世界を創建する国家観の思想をもっていたことを誰が知っていたでしょうか。同じ道理です。ですから、統一教会は黙々とこの道を整えていっているのです。

ここに世界二十五ヵ国からやってきた国際機動隊の隊員たちにも、「あなたは、自分の国よりも世界を愛しなさい」と教えました。これが神様の願う道であり、真の宗教の行くべき道なので、今日、彼らは、韓民族を自分の民族以上に愛する運動を提示するために韓国の地まで来たことを、皆様が記憶してくださるように願います。

理想世界に向かう公式的な人生を生きよう

神様は世界のために責任を負うことのできるその国を望んでいます。そして、世界のために自分のすべてを犠牲にできるその教会を望んでいます。そのことを皆様は知らなければなりません。もし皆様が神様に、「神様、あなたはキリスト教会、あるいは統一教会の神様になりたいですか」と尋ねるなら、神様は、キリスト教会の神様や、統一教会の神様になりたいとは思わないのです。世界の神様になりたいと思うのです。

より高い次元の道のために行く群れは、より高い次元の立場において、永遠に繁栄し、その環境において中心となり、自動的に主管することができるのです。そこから、天から臨む永遠の愛と永遠の理想を所有できることを知らなければなりません。ですから、夫は妻のため、妻は夫のため、また父母は子女のため、家庭は氏族のために生きることが公式的な生き方です。

ここから個人的人生観や国家観、あるいは宇宙観や神観にまで到達できる一つの公式が出されました。家庭は氏族のため、氏族は民族のため、民族は国家のため、国家は世界のため、世界は神様のため、神様は私たちのために生きることが理想です。皆様は、最高の神様が「私のためにいる」という立場、最高の神様の愛が「私のためにある」という立場に行ってこそ、平和と幸福、理想、真の愛が実現するのです。別の言葉で結論を下すならば、私のものは妻のもの、父母のものは家庭のもの、家庭のものは氏族のもの、氏族のものは民族のもの、民族のものは国家のもの、国家のものは世界のもの、世界のものは神様のもの、神様のものは私のものなのです。

このようなことが可能なその世界、個人でもために生き、家庭でもために生き、社会でもために生き、国家と世界的にもために生きることができる、どこに行ってもために生きることができるそのような所が、私たちの願う最高の理想郷です。理想郷なので、真の愛があり、真の平和があり、真の幸福があり、真の自由があるのです。そこが、私たちの願う理想世界です。

また、地上でそのような世界が展開し、神様を中心として一つになっているなら、そこは地上天国にならざるを得ません。堕落した人類は、そのような所を目指して前進しなければなりません。これが具現化された世界が起こるようになるとき、そこから人類の新しい未来、新しい希望の世界が展開されることを記憶してくださるように願いながら、私のお話を終えようと思います。

Luke Higuchi