天聖経: 第367話
第十一篇 礼式と名節
第五章 主要名節と記念日
第二節 主要記念日 38-49
38 梨花女子大学と延世大学の寄宿舎の学生たちに統一教会のブームが起き、何週間かでひっくり返してしまうので、これを放っておけば、数年の内にキリスト教が滅びると考えて、「どのようなことをしてでもたたき潰しなさい」と言ったのです。このようにして、ありとあらゆる怪しいうわさを立て、先生を調査させたのです。
調査しても何もないので、のちには兵役忌避という嫌疑をかぶせました。先生は、北朝鮮で監獄生活をして出てきたので、軍隊に行く年齢は過ぎていました。それにもかかわらず、兵役忌避という嫌疑をかぶせて調査したのです。そのような嫌疑をかぶせて調査しても事実ではないので、仕方なく無罪として釈放したのです。
39 当時、自由党の政権が先生にどれほど反対したか分かりません。先生が梨花女子大学を引っ張っていき、延世大学を引っ張っていくというのです。「ああ!宣教部が率いていかなければならないのに、レバレンド・ムーンの話を聞けば、梨花女子大学も延世大学もなすすべなく、根こそぎ引っ張られていく」と言ったのです。そこに大韓民国のすべての教派があれば、その教派が引っ張られていくようになっているというのです。ですから、大騒ぎになったのです。それで、学生を退学させる事件が起きました。
40 先生は、韓国人なので、韓国を中心として摂理の起点を出発しましたが、韓国のキリスト教は、韓国内のキリスト教としてとどまるのではありません。摂理と世界全体を代表したキリスト教の位置にあるのです。そのような立場に立った教会と国が反対すれば、全世界が引っ掛かっていくのです。先生一人をどのように潰すかということが問題でした。そのような問題の複雑な渦中を通し、イエス様が十字架で亡くなったのと同じように、最後にサタン側に引っ張っていく事件まで起きたのです。七・四事件のようなものが、その代表的な例です。
41 国が問題視していることに引っ掛かって倒れれば、問題が大きいというのです。しかし、延世大学と梨花女子大学を中心とした七・四事件によって監獄に入り、無罪釈放となったので、霊肉を中心とした新しい出発ができたのです。しかし、キリスト教と国が反対することによって基盤を失ってしまった立場にいたので、統一教会や先生自体で見れば、どのようになるのでしょうか。もちろん、分立された立場で失ってしまったものをすべて探し出した位置ではありません。今から再び探し出すべき位置だというのです。キリスト教が霊的世界の基盤を築いたので、この霊的基盤を身代わりできる基盤を先生がつくらなければならないのです。キリスト教のような基盤をもたなければなりません。それでこれを再び編成したのが、統一教会です。
42 先生は、ダンベリー刑務所に行きながら、「ダンベリーの向こう側には神様の愛の壁があるが、その愛の壁がどれほど高いか知っているか。どれほど大きいか知っているか」と言いました。そのとき集まった統一教会の教会員は涙を流しましたが、先生は、鼻歌を歌いながら、希望の行脚として、「あす、よみがえって訪ねてくる太陽の光は、さらに輝くだろう」と言いながら入りました。生活環境が一八〇度変わることが、先生にとっては研究の対象です。すべて、愛によって縫い合わせる研究材料にするのです。
43 先生がダンベリーから出てくることによって、今は西欧のキリスト教文明と東洋文明を代表した統一教会文明が位置を替え、次子が長子となり、長子が次子となって入れ替わる、潮流が変化する時になりました。四十年の峠を越えてこれを取り替えなければ、天の摂理が砕けてしまうので、先生は、監獄に行ってでもこのことをなさなければならなかったのです。
44 先生は、監獄でも、九五パーセントを他の人のために生きようとしました。それで、朝早く起きては掃除をし、汚い所をきれいに片づけてから日課を始めるのです。ダンベリーの監獄にいるとき、食堂に行っても休むことなく、何でもしなければならないというのが習慣になり、他の人たちは仕事がなければ居眠りして、ありとあらゆることをするのですが、先生は立って待つのです。習慣がそのようになっているのです。何か仕事があれば、先生がまず行って手伝ってあげます。ですから、その食堂で有名にならざるを得ないのです。
45 先生は、天のみ前に「私を助けてください」という祈りを一度もしませんでした。ダンベリーで先生は、第一に黙って働く人、第二に本を読む人、第三に瞑想をする人、第四に水泳をする人だ、というイメージが残りました。プール場が近いので、時間があれば水泳をしました。ですから、収容されていた人たちはみな、知っていました。そこは話を聞きつけるのが早いのです。先生が過ぎ去ったその足跡には、どこの誰が見ても回想する関係が残されているのです。
46 ダンベリーの壁を通過して生き残り、再び復帰して完成しなければ、天のみ旨に連結されません。中途半端な人に、完成の道は永遠にありません。いくら世界が統一され、先生が教える真理が世界の真理だとしても、大きな傷ばかりを負うことになるでしょう。
しかし、先生は、そうではありません。死の道を選んでも直行するのです。そこに先生の偉大さがあります。先生は、生涯に何回も監獄に引っ張られていっても、不平を言いませんでした。先生は、それ以上のことを考えるので、どこであっても堂々としているのです。万民の苦しみを背負っても、獄中生活を天国生活のように考えているのです。
47 先生がダンベリーでしたこととは何でしょうか。父母が道をすべて塞いでしまったので、先生が地獄から霊界まで直通する高速道路を築く式をしました。そのようにすることによって、地獄にいる人々がその道を通って上がっていけるようになったのです。道が開かれたので、自分の先祖が地獄に降りてきて、蕩減してくれるようになります。教育をして、一段階一段階、引っ張り上げるのです。
48 ダンベリーで先生は、偽りの父母によって閉ざされた霊界と肉界の塀を崩し、真の父母に出会える門を開いておきました。高速道路を築いておいたのです。そのため、霊界から自分の先祖が来て、父母が子女を愛する道理として、一段階ずつ引っ張り上げるというのです。ですから、霊界の統一運動もこの愛によって展開し、地獄解放運動もこの愛の道理によってのみ可能なのです。死亡圏まで消化できる能力は、愛にだけあるのです。
49 先生は、ダンベリーでの十三ヶ月の間に、アメリカで十三年間語ったものをすべて再鑑定しました。これから学者たちがこれを掘り下げていけば、疑問が出てくるはずですが、それに対する答えを得られずに先生のところに来るので、これに対する解説を確実にしてあげるためにそのようにしたのです。
責任者は、歴史的な責任を負わなければなりません。何回も耽読し、そこに対する盾をつくることができるよう、神様が私に許してくださった良い時期だったと思うのです。そのため、一般の人々が「文先生は、瞑想する先生だ。休む間もなく夜に昼に本を読んで勉強する方だ」、その次に「言葉を語っても絶対に不平を言わない方、不平を言う環境で希望の言葉を語る方だ」と思うのです。