天聖経: 第356話

第四章 祝福家庭の生活儀礼

第三節 祝福家庭の日常礼節 21-26

第五章 主要名節と記念日

第一節 主要名節 1-2

21 父の前に相対的な立場で、すべてのことを喜びで報告できる時代が来るので、「真の父母の勝利圏を祝福によって受け継いだ誰々の名によって」と祈る時は過ぎ去りました。これからは、「祝福中心家庭、誰々の名によって報告いたします」と言わなければなりません。祈祷ではありません。「報告いたします」と言うのです。報告する時が来ました。報告しようとすれば、善の結果がなければなりません。乞食のように、いつも「願います、願います」と言いますか。誇るために報告しなければなりません。実績がなければ報告もできないのです。

 

22 イエス様の名ではなく真の父母の名によって祈り、今は「祝福中心家庭、誰々の名によって」、このように祈るのですが、今は報告祈祷をするのです。報告祈祷をしなければ、これから第四次アダム時代において、天の所有権の分配を受けることができません。所有権の分配を受けるためには、天の国の代表家庭にならなければならないというのです。

 

23 祝福中心家庭は、堕落世界と何の関連もありません。アダムとエバが堕落する前、神様の心情世界と連結されていた立場だというのです。それが祝福中心家庭です。それは神様の創造理想が完成した家庭として、堕落していないアダムの家庭を身代わりするのです。そのような立場では、祈りの代わりに報告を捧げるのです。

完成したアダムの家庭では、祈りをする必要がなく、報告を捧げればよいというのです。日ごとに報告を捧げながら理想世界を成し遂げていくことが、完成したアダム家庭の進むべき道です。そのような新しい何かがなければ、報告をすることができないというのです。そこではメシヤも必要なく、宗教も必要ありません。なぜなら、すべてのことを知っているからです。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、そして神様の心情世界まで、すべて分かるのです。

 

24 これから統一教会は、キリスト教で言う「アーメン」を「아주」と変えます。「アーヂュ」とは、「私の家」という意味です。「アーヂュ」というのは、「我(ア)」の字と感服するすべてのことを意味します。驚く「ああ」や感服する「ああ」など、すべての恨の歴史を越えるのです。「とても(アーヂュ)良い!」と。言うのであって、「とても(アーヂュ)悪い」という言葉を使いますか。それは最高を意味します。

「アーヂュ」の「ヂュ」というのは、「主」の字にもなり、「住」の字にもなります。人として主人になって暮らす最後の場です。「アーヂュ」がそうだというのです。入って住むというのです。「ああ、今や主人になったのだなあ!主人になったから、私の家に行って暮らさなければならないなあ!」というとき、「私の家」というのは神様の奥の間です。生まれるときは、神様の奥の間だけではありません。神様の妻の腹中、骨髄の中で暮らさなければならないのです。分けることはできません。「アーヂュ、私の家」と言えば、それ以上願うことはありません。神様の内的心情において、分かれることのできない永遠の一体圏を中心とする場所が「私の家」だというのです。「私の家」にもなりますが、一番深い家にもなるのです。二つの意味があるのです。

 

25 「祈った内容のとおりになりますように」というのが「アーメン」ですが、「なる」というのは何でしょうか。「私がなった」という立場に立ちなさいということです。「アーヂュ!私は、全体を祈る理想の主人になりました」という立場で祈りなさいというのです。祈る内容が私と関係なければ、「アーヂェ」と言うことができません。

 

26 「アーメン」の代わりに「アーヂュ」ですが、最高の主人という言葉です。「主(ヂュ)」です。主の上に行くということです。主は「アーメン」だけ言ったのであって、「アーヂュ」は言えませんでした。主の上に行くということではないですか。民が女王や王に出会えば、「とても(アーヂュ)良かった!」と言うのです。「アーヂュ」という言葉は、最高のものにつけるのです。「アーヂュ」というのは、三時代を頂上から突き通して主人になったということです。

第五章 主要名節と記念日

第一節 主要名節

 

1 これから、皆さんが天の王子であり、天の国の群れであることを知って、自分のすべての環境に対する礼法を備え、自分の本分を遂行しなければなりません。祝福を受けたという人々が、そのようなことも知らずにいます。

それでは、統一教会の教会員は、これからどのようにすべきでしょうか。「神の日」を中心として、家庭の伝統を樹立しなければなりません。また「父母の日」を中心として、家法を立てなければなりません。「子女の日」を中心としては、一つの秩序を立てなければなりません。これらの日を記念するにおいては、世の中のいかなる名節よりも精誠を尽くし、喜びながら迎えなければなりません。

そうして、その家庭の伝統の起源が「父母の日」、「子女の日」、「万物の日」、「神の日」にならなければなりません。またこれらの日を祝う伝統を立て、自分の千秋万代の子孫に至るよう、天的家法をつくっておかなければなりません。これを中心として、「父母の日」から「子女の日」に直行し、ここから「万物の日」に直行して「神の日」まで直行しなければならないのです。

 

真の神の日

2 今までサタン世界によって侵犯を受けていない高次元的な基準で、神様の心情を中心とした一つの回路を造成しなければなりません。このような伝統の最初の基礎の足場が、統一教会で守っている名節です。この日を迎えて記念するためには、自分の生活全体を、この日を中心として結びつけることができなければなりません。また忠誠と精誠をすべて集め、この日と連結させなければなりません。このようにしてこの日を祝うことができてこそ、天が立てた名分と礼法を守る子女になるのです。六千年目に初めて探し出された日が、正に「神の日」です。この日は神様が喜ぶことができ、天地の運勢が総集結する日です。歴史上、前にもあとにもない日です。そのため、精誠を尽くしてこの日を迎え、記念しなければなりません。

Luke Higuchi