天聖経: 第232話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第八篇 信仰生活と修練

第二章 心と体の修練

第二節 修練の目標 3-15

3 人間にとって最も貴いものは、神様の全体属性を備える本然の私です。しかし、人間が最も貴いものを失ったので、それが見つかるまでは喜びや幸福を感じることができません。それで、今日の堕落した人類は、東西南北の四方に散って、その「本然の私」を探し求めているのです。

 

4 絶対的な理念の本体であり、善の本体であり、生命の本体であり、愛の本体であるその何かを必然的に求めるべき人間なのですが、「私」自身は今、さまよっています。このような私の姿が絶対的な善の方向と角度に比べて、どのような方向と角度をもっているのでしょうか。

私の心は右に行こうとするのに、体は左に行くのはどういうことでしょうか。私の心は、もっと高い理念をもとうとするのに、実際には限界のある宇宙観をもっているのはどういうことでしょうか。私たちの姿を、もう一度冷静な立場で観察してみなければなりません。その何かを求めるためにあえいでいる、自らの強情でひねくれた姿を見つめようとしなければなりません。私には体があり、心があり、霊があります。私たちは、この体と心と霊が統合した一つの姿にならなければならないのです。

 

5 神様と共に働き、共に死ぬ立場で自分を再創造する努力を経なければ、平和の境地、神様の理想郷は「私」と関係を結ぶことができません。この距離を短縮させ、その理想的平和の境地が自分のものだという自覚をもち、自分が動くときは必ず神様が創造した本然の道に従って動くようにするのです。そして、天国に入る時、サタンが汚したものをきれいに清算して解放し、天国の王権を受け継いでから入らなければならないのです。

 

6 人はみな、負債を負いました。生命の負債、血統の負債がそれです。宇宙の愛の中で生じた存在世界に負債を負っています。ですから、負債を返す解放の位置に行かなければなりません。万物を造られた神様の本然の愛の心の位置を踏み上がって、神様までも解放させてあげなければならないのです。創造したすべてのもの、絶対信仰、絶対愛、絶対服従の基準で造ったものを神様が失ったので、私たち人間が取り戻してあげなければならないのです。

 

自己主管が優先

7 今は、自分たちの生命と、先祖たちの生命を救うべき覚醒時代です。これを考えるとき、「私」個人はこのように自由に動いて暮らせる自らではありません。このすべての存在世界は、宇宙的な関係圏内で私の実存価値を立てることを待ち望んでいるのを、実体的に感じなければなりません。心で感じ、頭で理解するだけでなく、情的に感じることのできる立場にまで進まなければならないというのです。

今日、人間を見つめて、「あまりにもかわいそうです。お父様!しかし、お父様が良心をもった人間に物質を与える責任と、真の心をもつ者の体を主管すべきみ旨があることを知っておりますし、真の霊自体がお父様の主管を受けなければならないことを私たちは知っております」と言いながら、自分自身に山のような黄金と宝物を持ってこられても、それが心の願うものではないとすれば、それを果敢に捨てることができなければなりません。

問題は、このようにこの上なく大きな物質的な試練を、軽々と越えられるのかということです。したがって、私の体の価値は宇宙よりも大きいので、この宇宙よりも大きな体を私の心が屈服させる時、私の心は宇宙的な価値を乗り越えるのです。

 

8 私たちの心は、世界を抱き、天地を抱き、最後には神様まで抱こうとします。それが心がもつ目的です。ですからイエス様は、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ一七・二一)と言いました。さらには、「父がわたしにおり、また、わたしが父におることを知って悟るであろう」ヨハネ一〇・三八)と言いました。

皆さんは、皆さんがもっている理念や、皆さんが暮らしている生活環境において、隣人をどれくらい同参(一緒に参加すること)させることができ、この民族とこの世界を、どれほど引き入れることができますか。皆さんの心は大きいのですが、その心の中に自分の一つの体を入れることができない堕落した人間です。皆さんの心は、天地を抱き、神様までも抱いて安息させてさしあげようとします。それにもかかわらず、皆さんは、自分の一つの体を征服できずに、あえいでいるのです。

 

9 皆さんは、それぞれ心をもっています。それでは、心と体は互いに友人になるでしょうか、争い合う群れになるでしょうか。もし友人になれずに争い合う群れになるとすれば、どちら側が闘いの主人公になるのでしょうか。心と体が争えば、いつでも体が先に心に闘いを挑むようになります。心はじっとしているのに、体が心を苦しめるのです。男性の体でも女性の体でも、その体は心を悩ませるのです。ですから、自分一個体において、心と体の統一を成し遂げなければなりません。皆さんが「心よ、体よ、お前たち、統一しなさい」と命令したからといって、心と体が統一されるのではありません。

 

10 心がどれほど大きいか知っていますか。見えませんが、あることはあります。この心がどれほど大きいかというと、恐らくこの世界を百個、千個入れても、満足しないでしょう。また、地球星のようなダイヤモンドが何千個、何万側あるのに、一個だけしか与えなければ、気分を悪くするでしょう。このように、心は想像もできないほど大きいというのです。また皆さんの心は、学ばなくても、良いことと悪いことをよく知っています。

心が誰かから、「おい、心よ。誰かがこれこれこのようなことをすれば、悪いことなので、その時はお前が番兵になりなさい」ということを学んだでしょうか。学んでいませんが、この心は、体がとても大きな力で刃向かってきても問題にしません。かえってその力に比例して、電気よりも速く、即座に反応を起こします。他の思いをもてば、即座に止めるようにするのです。

どれほど教育を受ければ、そのようになるのでしょうか。もし人が教育して、いつでもそれができるようにしたとすれば、これは大成功です。いくら偉大な教育者でも、このようにすることはできませんでした。このようなことを学んだことがありますか、ありませんか。学ばなくても、すべての人がよく知り、よくできるというのです。

 

11 世の中が問題ではありません。天下が統一されたとしても、「私」が統一されなければ神様のみ前に行けません。一言誤っても、良心はすべて分かります。良心は両親に優ります。良心は両親が与えたものではありません。天から来たのであり、根っこが神様なので、自分の両親に優るのです。良心は堕落した世界の師に優り、良心は両親に優るのです。

 

12 皆さんの心と体が闘い始めたのは、いつからか分かりますか。堕落した直後からです。そこで病気にかかったのです。それを取り除いてしまうことができなければ、絶対に天国に行けません。心と体が闘う人は、天国に行けません。先生はそれを闘ったのです。「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というのです。行けば行くほど、神霊的な世界に入れば入るほど、もっと恐ろしいサタンが現れるのです。

 

13 皆さんは、常に「私」という存在が善悪の母体だということを考えなければなりません。先生も皆さんのような年齢のとき、このような内容で苦闘したのです。

それで、先生が立てた標語が、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。これが信仰生活においての第一条です。このような面で、自己を完成し、自己を主管できるようになるとき、すなわち、自分の体を制御し、克服できる自主性をもつようになるときは、自分の心と体の相克がなくなるのです。

 

14 先生は、「お金を下さい」とは祈りません。出世するためには祈りませんでした。それでは、三大目標とは何でしょうか。

第一に、「宇宙主管を願う前に自己主管を完成せよ」というものです。第二に、「絶対的な信仰をもとう」というものです。第三に、「絶対愛をもとう」というものです。これが三大目標です。

「私」の仕事において、サタンがうそをついてだましても、私は絶対的な信仰をもって事実を確認するまで行くのです。ですから、「サタン、お前も、最後には私を正しい道に案内しなければならない」という信仰をもつのです。

 

15 至高な愛の理想を成就すべき人間の完成は、愛に対する責任性をもつ時に可能なのです。その責任性とは、人間が愛の自由を下さった神様に感謝しながら、自己修養、自己管掌で自由の主体になる責任です。人にとって愛の責任性は、法や世間体ゆえに守られるのではなく、神様との生命的、縦的関係の中で自己主管、自己決断で守られるのです。

Luke Higuchi