天聖経: 第226話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か、
第三節 信仰生活の道 27-29
第四節 信仰生活の段階 1-9
27 アダムとエバを造るとき、本来の関係を中心として、あらゆる精誠を尽くしたように、この堕落して故障した物を直すためには、千年歴史で創造したものの何十倍以上の力を注いで本然の位置を取り戻さなければなりません。何百回、何百回、何百回、このようにして定着していこうとするので、数千年、数万年の復帰歴史がかからざるを得ないのです。
28 人間は、悪魔の主管圏内、サタンの主管圏内で、本性の心と反対のサタンの愛の圏内で統治されることによって、良心と体が闘争するようになりました。この闘争をいかに整備するか、ということが重要な問題です。
これを整備するには、「私」一人の個人の事情を整備することで終わるのではありません。私を中心としてサタン圏の世界の環境を整備しなければなりません。ですから、その環境が自らと相いれないようにするのではなく、すべての環境が私に順応し、その環境自体が私についてくることができるようにしておかなければなりません。そうでなければ、本然の心が指向する所に訪ねていけないのです。
29 「私」とは、どのような存在なのでしょうか。この宇宙史的な存在として、最後の人生行路で勝利の冠を求め、天地の万宇宙、万有の存在物を相続できる神聖な王子です。このような存在が落ちて、一握りの米で売られていき、どこかの無価値な悪党の群れに籠絡されていいのでしょうか。それを許容することはできません。今から、私たちが取り戻さなければなりません。私たちが復帰の使命を担って、人間の本性を回復させなければならないのです。
本然の私は、どこにいますか。私を取り戻すためにさまよっていて、本然の私自身を知って、そこに関係を結んで生きようとする希望の中であえいでいます。歴史的な起源と通じ、歴史的な起源にだけ通じることで終わるのではなく、その背後には天地の法度と連結され、現実と連結されていて、今後、訪れる未来と連結されている私を取り戻さなければならないのです。
第四節 信仰生活の段階
1 漢字で信仰という字を書いてみると「信」の字です。ここから「人」の字を取れば「言」の字だけが残ります。信仰というのは、結局、人の言葉を意味します。この時、言葉とは、人と人の関係を結んでくれるものを意味します。関係がなければ言葉が出ないので、言葉を話すときは、既に相対的基準ができているのです。
また、関係が結ばれるには信仰がなければなりません。このような根本が愛によってつくられた関係から出てきたのです。しかし、その関係は、自分の思いどおりに結ばれたものではありません。その関係が結ばれる力の条件があり、目的とする基準が互いに符合できたので、結ばれたのです。
信仰を立てる段階
2 希望は、必ず信仰を標榜して進んでいきます。信仰は何を求めるのでしょうか。信仰を完成した実体において、百を信じたなら、信じた百の実際の価値を求めるのです。それは、創造理想と一致できる人、すなわち原理法度と一致できる人、堕落しないで完成した人を標榜し、信じて進んでいくのです。この信仰で勝利するようになるとき、彼は希望を成し遂げることができます。希望と信仰で勝利した実体になるとき、神様の愛は自動的に現れるのです。
3 絶対的な信仰者を絶対的に求めていく神様の公式的原則があるので、ノアに対して山に船を造る立場に、立てまいとしても立てざるを得ませんでした。ノアは百二十年間、その責任を全うしました。そのようにして百二十年という年数を復帰したのです。
ノアは、それをしました。聖書には、ノアの息子たちが洪水審判ののちに、「父は狂った父だと思っていたが、父の言葉どおり神様が審判して、うちの家庭の八人家族だけが残った。これを見ると、うちの父の言葉が正しい。うちの父は預言者であり、神の人だ」と、尊敬しなければなりませんでした。
それにもかかわらず、洪水審判ののちに、ノアが箱舟から降りたのち、裸になって寝ている時、次男が「父が狂って裸で寝ている」と兄弟を扇動し、兄弟が服を持って後ろ向きに歩いていってかぶせました。隅々まで否定したというのです。結局、反対したことを否定できません。神様のみ前に絶対的な信仰を立てなければなりません。サタンの前に絶対的にするのではなく、神様だけのために絶対的な信仰を立てる人は、神様が信仰の先祖として祝福しないわけにはいきません。愛さざるを得ないというのです。
4 実践と信仰について見てみるとき、いつも信じることが先立つのであって、実践が先立つことはできません。堕落した人間においては、信仰が強くなってこそ実践も強くなります。しかし、信じる基準と実践の基準には、いつも差があります。
神様は、信仰だけを望むのではありません。より良くなることのできる実践の結果を望んで、信仰を求めるのです。それにもかかわらず、人間は実践をおろそかにして信じることを主としているので、神様が望むことと食い違っています。そのような信仰生活を常にしているのが、私たちの立場なのです。
5 神様が絶対信仰から始めたので、み旨を成就するためには、絶対信仰から始めなければなりません。絶対信仰は、絶対愛を中心としてしなければなりません。主体となるものが愛です。信仰は相対です。ですから、皆さんは、愛を中心として絶対信仰、絶対欲望を望むのです。愛の目的は、大宇宙を出産することです。創造しておかなければなりません。ですから、絶対信仰です。大宇宙を生産していこうとするので、神様までも自分の実体、心と体のすべてを投入し、さらに投入し、永遠に投入しなければならないのです。
6 絶対信仰とは、ために生きることです。絶対の神様がために生きているというのです。若いときにデートをすれば、男性も女性もお互いに「どれくらい信じているか、どれだけ私のために生きてくれるか」と考えますが、ために生きる道を立てるために、ために生きる道を歩みながら一つにならなければなりません。
絶対信仰とは、創造の対象物を立てるためのものです。絶対信仰の上に真の愛を中心として一つになるので、投入しなければなりません。誰かが投入してこそ水平になりますが、誰が投入するのでしょうか。男性が「自分を中心として投入しなさい」と言っても駄目であり、女性が「自分を中心として投入しなさい」と言っても駄目です。二人がお互いに投入し合いながら、より大きなことのために思い、望むことができなければなりません。このようなものが絶対信仰、絶対愛なのです。
7 なぜ絶対信仰が必要ですか。神様も最高の理想的基準の位置まで行かなければなりません。ですから、その基準を中心として愛の相対圏が出てきます。相対圏自体を、微々たる動物や鉱物世界を絶対信仰で造ったのです。絶対愛を中心として投入したというのです。絶対投入して、鉱物時代、植物時代、動物時代、その次に安着時代に移っていくのです。心と体が争っては絶対にいけないという結論の立場に立たなければ、天国化された世界や天国になることはできないのです。
8 絶対信仰とは何でしょうか。絶対愛の秩序を立てるためのものです。愛のためです。その愛のために絶対信仰を求めていく人は、自分自体の個性真理体を忘れて投入します。神様が人格神の性粗と形状をすべて忘れて、根こそぎ投入してこそ、相手が完成するのです。そして、「私を、息子を愛することのできる父母の愛の主人にしてほしい」と言うのです。それは、息子がするのであって、神様御自身もできず、父と母もできないのです。
堕落性を脱ぐ実践の段階
9 今日まで、神様が失ったものを探し求めてこられたのも、人間を主管できる能力がないからではありません。今日まで、サタンの讒訴を受けながら闘われたのも、神様に権能がなくてそうしたのではありません。原理原則を探し立てるためでした。神様は、サタンを前に立てて、サタンがつくったものを再び整理する役事をしてきていらっしゃるのです。サタンが先に支配していたものを整理することは、サタンが讒訴できないというのです。ですから、最も賢い人は、サタンまでも立てて手伝いをさせることのできる人です。そのような人がいるとすれば、彼は最後の勝利者でしょう。