天聖経: 第225話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第一章 信仰生活とは何か、
第三節 信仰生活の道 16-26
16 堕落した人間に肯定的な要因が残っているときは、堕落性をもっているという結論が出てきます。このように見てみるとき、完全に分解しなければなりません。その形態とその要素をそのまま連結させるところには、堕落性の要因が残っています。それは、完全分解、完全否定ではありません。完全分解というのは完全否定です。真の人間の本然の理想的な所願成就の道は、堕落した人間に肯定的な要因が存在していては、出てこないのです。このように結論を下すことができます。
ですから、真の神様が宗教を通して彼の摂理の目的を追求していらっしゃるとすれば、その神様が主張する行路、路程は、肯定ではなく絶対否定です。絶対否定で出発した基準が出てこなければ、堕落した人間の前に、絶対者の相対理念を成就できる道は出てこないのです。
17 堕落性を完全に脱がなければなりません。堕落性を完全に脱ぐためには、自分個人から脱がなければなりません。そうして、個人において勝利しなければならず、家庭において勝利しなければならず、民族、国家、世界、天宙まで勝利しなければなりません。これが堕落性からの解放圏です。ですから、それを克服できる相対的な自分を発見するようになるときは、直ちに神様が主管しているものが分かるようになります。信じるのではなく、「私」が神様と共にいることが分かるようになるのです。
18 皆さんが天のみ前に立つとき、足りない自分自身を発見しなければならず、罪人であることを認識しなければなりません。そして、神様が思いどおりにできる泥土のように、土くれのようになりなさいというのです。皆さん自身が存在するということを自ら認めては、不可能です。ですから、「死なんとする者は生きん」という言葉が、そこから成立します。
この目が堕落性をもっていて、この耳が堕落性をもっていて、この口が堕落性をもっていて、この体が堕落性をもっています。これを完全に排除してしまいなさいというのです。神様が願われるとおりに、このように造り出せばこのように行き、あのように造り出せばあのように行き、「突撃しなさい」と言えば突撃し、「後退しなさい」と言えば後退しなければなりません。神様が願うとおりにできなければならないのです。
19 認識や意識を変えるというのは、恐ろしくて難しいことです。一度誤った習慣を身につけると直すのが困難です。それで「三つ子の魂百まで」という言葉があるのです。
皆さんが統一教会に入ってきて数十年になっても、社会で生きていた習慣性が根絶されていないというのです。「み旨のために犠牲になりなさい、犠牲になりなさい」という話はしますが、本当に犠牲になったでしょうか。犠牲になる立場と犠牲にならずに行ける立場を選びなさいと言うなら、「犠牲になる立場に行こう」と、自信をもって言える皆さんになっているかというのです。そうはなっていません。生活する人間の歴史的伝統によって、習慣性がそのようになっているからです。
パウロのような人も、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」(ローマ七・二四)と言いました。それも習慣性のためです。二つの法があり、心は神様の法に従い、体はサタンの法に従う、その中間に自分自身が置かれているので「ああ!」と言いながら嘆いたというのです。この死の陰から誰が救ってくれるのかという話です。
20 生涯の何年間にわたって身につけられた習慣性をなくすためには、死ぬほど努力しても足りないというのです。言い換えれば、何百万年も続いてきた習慣性と堕落性を抜き取るというのは、数世紀の人生路程をもってしてもできないというのが理論的です。これは深刻なことです。
皆さんは、堕落性についてただ漠然と話しています。それは、食べることによって身についた習慣ではありません。骨肉を受けて継承し、血統を受けて継承したものです。そして、血肉を混ぜてできた習慣性です。人の力では抜き取ることのできない根を、そこに下ろしています。世界万民を抱えるかのような、巨大な木のようになっているのです。
21 堕落性に対する自覚、堕落の恨に対する自覚をしなければなりません。エデンから追い出されて涙を流したアダムとエバを考えてみてください。それを回想するのです。それ以上に懇切に父母を求め、一つになろうとする心に徹し、千年、万年、死の峠があっても、それを何度でも越えようという心が先に立たなければなりません。ですから、心と体が一つになるところを探さなければ、勝利の覇権基盤が地上に横的に展開しても、「私」と関係を結ぶことができないのです。
本然の自分を探す道
22 皆さんは、取り戻すべき本然の自分を置いたまま、喜ぶことのできない自らであることを知らなければなりません。悲しみに置かれている自らであることを知らなければならないのです。しかし、ある世界を見て悲しく思うのではありません。悲しみや苦痛を感じるとしても、ある相対的な世界で起こる悲しみや苦痛を感じるのではなく、「真の私」を探せない悲しみ、真の私を探せない苦痛を感じなければなりません。世の中に悲しみと苦痛がたくさんあるとしても、真の私を探せない悲しみと苦痛よりひどい苦痛と悲しみはありません。
それでは、創造主である神様は、今まで誰を求め続けていらっしゃいますか。皆さん自体、すなわち私を訪ねてきていらっしゃいます。ですから、真の私が完全に決定されなければなりません。そうすることができないとき、完全に一つの実体を中心とした真の家庭、真の家庭を中心とした社会、国家、さらには国家を単位とした世界、世界を単位とした天宙とは、関係を結ぶことができません。ですから、完全な私になることが、すべての段階の一番の基準になるのです。
23 人間は、神様のみ言に背いたために、神様のみ言を失い、神様の実体を失い、神様の愛を失ってしまいました。神様がみ言を語られるときの心情はどうであり、実体を造るときの心情はどうであり、その実体を通して誇ろうとしていた神様の内的心情はどうだったのでしょうか。このようなことを考えるとき、私たちは、神様のみ言を失った者であり、本然の実体を失った者であり、神様の理念の園を動かせる愛の実体を失った者だというのです。
ですから、私たちは、自分を立てて誇ることのできない罪人だと悟らなければなりません。また、自分の実体を立てて主導する行事ができない存在であり、自分の心を立てて安息の基盤を求められない存在であることを知らなければならないのです。
24 心は、行く道をしきりに止めようとします。「背を向けなさい。昔に帰りなさい。心の深いところに帰りなさい」と言います。ですから、仏教では「座禅をしなさい」と言うのです。本然の私を、本然の心を求めていかなければならないのは、悲しいこの地上の生活であり、今日、この地上の現実ですが、昔に帰ってこれを清算したのちには、夢にでも過去を考えたくないというのです。これをなくしてしまおうとするのが神様の目的です。ですから、新しい理想世界と新しい希望に酔いしれて生きなければなりません。
25 世の中の人が求めるのは、良いものを食べようとし、良いものを着ようとするのです。しかし、修行の道を行く人は、悪いものを食べようとするのが本質にならなければなりません。反対です。良いのを食べられず、良いのを着られず、貧しくとも、本然の関係を求め、永遠に「私」を抱いてくれるその愛を訪ねていくことが、宗教人たちの生活目的であり、生活の方便です。行く道が、このように違うというのです。
26 み旨の本然の位置は、神様がいらっしゃるところです。ですから、み旨の本然の位置は神聖なのです。そこは、万有のすべての段階を超越し、四方から測定しても、自分の位置が何度だということがはっきり出てくるのです。しかし、それが合わないときは、自分が見ると一八〇度なのに、その原点基準がほかのところにあるので、回して合わせるまでは一八〇度になる道がありません。そのような結果にぶつかるのは、歴史過程が堕落圏内にあるという概念のもとでは、避けられない結論です。
「私」を照準として四方から零点の位置を探さなければなりません。探すには、本然の零点の位置を中心として、原器のすべてをはっきりと知るべきことを理解して、その理論に一致させるとき、私もそのようになるというのです。その事実を見いだすまでは、私たち自体が結果的存在として出発できる、み旨の一致点を探すことはできません。それは理論的にそうです。異議がないのです。