天聖経: 第170話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第六篇 真の万物
第三章 万物の嘆きと真の万物主管
第四節 万物に対する姿勢 11-18
第五節 復帰しなければならない本然のエデン 1-6
11 人間が生きるためには、空気と水と太陽の光、その次に土がなければなりません。ですから、太陽が有り難く、水が有り難く、空気が有り難く、その次に土が有り難いのです。皆さんが汚いものを空気の中に投げても、地に落ちます。地を保護しなければなりません。地に肥料をあげなければなりません。肥料をあげれば、その肥料で生命の種が育つのです。母親は、家で最も汚いものを触ります。地と同じです。母親のところに行ってこそ、家庭がきれいになります。男性は何でも散らかしておくのです。地を無視し、やたらに踏んで歩き回るというのです。
自然保護と愛
12 自然を保護し愛することが、人間を愛するモデルになるのです。赤ん坊もそうです。おもちゃのようなものやペットを愛することが、人を愛する教育になるのです。そのように生きさえすれば、自然と共に暮らす人が、宗教生活より心情的な面で次元が高まるので、良い霊界に行くのです。ですから、年が七十を超えて八十になれば、自然に帰らなければなりません。自分の記憶が曖昧になり、体力が弱まれば、自然に帰って暮らさなければならないのです。そうして、神様が造ってくれた自然のすべての原初的なものを愛し、管理、保護し、主人の役割をしながら生きることによって、高い心情の世界である天国に行けるというのです。
13 真の愛をもった人、真の愛をもった夫婦が愛し合いながら暮らす庭には、美しい花が咲こうとし、美しい鳥と、美しい動物が近くに来て棲みたいと思うのです。そのような本性の動きがあることを知らなければなりません。そのような人は、自然にすべての万物が慕ってついてくるので、豊かに暮らすなと言っても、豊かになるようになっているのです。
14 人は自然に帰って、神様が創造された万物を愛して暮らさなければなりません。「私」のために造った神様の心情を感じながら、土、水、植物、動物を造られた父なる神様の物を「私」が相続するのです。ですから、創造された神様の本然の心に喜びとして栄光をお返しし、すべての物をお返ししなければなりません。
ですから、一年間苦労して作った穀物を収穫し、冬になれば休むのですが、一年一年、刈り入れたすべての収穫を、感謝祭のように、天のみ前に捧げて神様に栄光をお返しし、翌年の春になればまた出発するのです。そのように出発すれば、その栄光をお返しする基準を中心として神様が祝福してくださるので、繁栄できるというのです。
15 神様がするのは人類の救援です。人類を救うのに、一本の大きな木があれば、その木の枝は、大きな木と同じです。私たちもそうなので、結局、神様が探し求めるみ旨の助けになれるよう、失われた人類を探し求めるのです。ですから、東洋と西洋のどこに行っても、人を愛する関係を残さなければなりません。人を愛することを知らない人は、自然を愛することができません。
また、自然を愛することを知らない人は、人を好きになることができません。それが神様のみ旨です。人と共に自然を好きになり、神様の愛と共に人が生きるのです。好きだからといってそれでよいのではなく、愛と共に生きるのです。
16 自然を愛し、人を愛することができなければなりません。人を愛せず、自然を愛せない人は、神様を愛することができません。
万物は神様の象徴的存在であり、人間は実体的存在なので、万物と人間を愛せる人は、神様を愛するようになるのです。
17 神様の代わりに山を愛し、神様の代わりに水を愛し、神様の代わりに万物を愛すれば、万事亨通(こうつう)(すべてが順調であること)です。健康だというのです。それが三大条件です。それで山水苑なのです。私も、それで山が好きなので、山と水が共にある所を探すのです。神様の代わりに万物を愛さなければなりません。海を愛さなければなりません。そうしてこそ愛する主人になるのです。より愛する人が主人になるというのは、間違いのない結論です。
18 この地上の全万物を神様の代わりに愛せる人であれば、その程度によって神様の愛を自然に受けるようになっています。ですから、万物を愛さなければなりません。万物を愛し、人間を愛する人は、神様の愛を受ける資格をもつ者になるのです。世界とこの宇宙を愛し、世界万民を愛する人、本当に生命を捧げ、自分の生命以上に貴く思って愛せる人は、自動的に神様の愛を価値あるものとして受けることができるのです。
第五節 復帰しなければならない本然のエデン
1 堕落がなかった本然のエデンの園を考えるときに、誰もが連想するのは何かというと、神様です。そして、神様が六日間の創造を終えられ、祝福されたアダムとエバが連想されます。また、神様を中心として、罪のない本然の人間始祖がいて、罪悪の侵犯を受けていない万物がありました。万物があるのは人間のためであり、人間がいるのは神様のためでした。しかし、天を中心とした人間になれず、人間を中心として和動できる万物になれなかったという事実は、エデンを思う人間にとって大きな悲しみであり、痛みであり、悔しさとして残り、私たちの心と体をつかんでいるのです。
神様の心情が宿った被造万物
2 私たちは、天下万象を何げなく見つめてはいけません。神様の大創造理念世界の存在物は、すべて一つの愛を目的として動くので、極めて微々たる存在だとしても、そこには神様の全精力が宿っているのです。神様は、この被造世界を六日間でお造りになりましたが、その一つ一つの存在物、例えば一日目や二日目に造られた存在物にも、六日以降に展開する大宇宙の創造理念が連結されていました。このように見るとき、どんなものであっても、神様の心情を根として造られなかったものは一つもないと断定できるのです。
3 私たちは、昔の有名な人々が残した遣物を大切に思います。彼らが所有して暮らした骨董品を貴重に思うのです。しかし、今、皆さんの目の前に砂粒が落ちているというとき、その一つの砂粒にも神様の心情が関係を結んでいることを知らなければなりません。それは、どんな貴い人や素晴らしい人より、もっと高い創造主のみ手を経て生じた心情の結実体です。このような価値のある存在物であることを知り、一つの砂粒でも宇宙のように貴く思う人がいれば、その人は、間違いなく神様の息子、娘です。
4 野原に育っている微々たる一本の草も、神様のみ手を経ていないものはありません。成長している一本の木を見ても、そこには神様の無限な内的心情を通した事情が通過しているのです。草木だけでなく、野原で飛び回っているいかなる動物や昆虫、もしくは鳥類も、これらは何げなくできたのではなく、徹頭徹尾、神様の内的な心情を通して造られ、実体のみ手を経て造られたというのです。
5 神様はお造りになった万物を愛されますが、私たちは、どのような思いをもつべきでしょうか。神様は万物を造り、「良し」と言われましたが、その中でも一番愛するのが草であれば、草の中でも神様が最も愛する草は何かを考えなければなりません。このようなことを、皆さんが時間を惜しまず考えられるところにとどまれば、皆さんは人間を造る前に万物を通じた神様の恵みと接することができます。
そして、一株の草をつかんでも、これが一日の希望の対象になるという事実を知って、楽しみながら喜びの心情をもたなければならず、神様のみ手を経て出てきた草だということを体恤しなければなりません。そのような人がいれば、その人は堕落した人間ですが、太初に天地を創造された神様の創造の心情世界においては、神様の友の立場に立てるのです。
6 天の心情を欽慕し、天の理念を待ち望み、天の復帰の園を見つめる真の心をもったという人の中で、神様を仰ぎながら栄光の位置、楽しむことのできる位置で喜びを体得するために努力する人は多いかもしれませんが、微々たる草木から昆虫、さらには全体に及んでいる父の内的心情を思い起こしながら喜べる人は少ないというのです。自分の精力を傾けてある昆虫を作ったというとき、それ以上の精力で愛そうという人が現れ、心と情を尽くして見つめ、その昆虫を愛してくれるとすれば、その昆虫を作った存在にとって、それ以上の満足はないというのです。