天聖経: 第142話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第五篇 真の家庭

第四章 真の子女の教育と家庭天国

第二節 家庭は天国の教本 24-28

第三節 父母の愛と責任 1-7

24 天国の起源は家庭です。真の愛を中心として、家庭を転換しなければなりません。ですから、家庭の中でも、二世たちが活動しなければなりません。サタンは青少年たちをみな破壊しておきました。青少年たちを麻薬の巣窟に追い込んでいます。悪魔の矢に当たってフリーセックスの場になってしまったのです。これを青少年たちが地域ごとに団結して、その村に乱暴者の連中がいれば、全員が一つとなって警察と共に除去運動を行うのです。その村に悪事を働く一味が現れれば、二世たちが責任をもち、父母と一つとなって彼らを追い出し、地域で教育できる時代に越えていくことによって、私たちの家庭は希望的な家庭になります。そのようにして、平和の王宮的基台を自分の家庭から世界版図まで拡張できる理念的世界が展開していくのですが、それを迎える準備をする人が、知恵ある国民であり、今後、福を受けられる国民になるのです。

 

25 自分の家庭で祖父母に侍るように、万国でそのように暮らし、侍る心情をもっている人は、天国に入るときに道が塞がりません。万国の統一的教育基盤のために、行動的な統一のために教科書が必要なのと同様です。年を取った人を見れば、自分の祖父母のように考えなさいというのです。お昼時になって食堂に入るのに、お金がなくて困った顔をしていれば、一緒に入って、自分の祖父母のようによく接待しなさいというのです。ために生きれば福を受けるようになり、創造の実績が損害を被る道理はありません。愛を中心として投入するところには、損害を被る道理はないのです。

 

26 神様の悲しみとは何かというと、三代をもつことができなかったということです。それを横的に解かなければなりません。神様は、アダムとエバが真の夫婦になった姿、真の父母になった姿、そして真の孫になった姿を見ることができませんでした。これが三代です。これが逆さまになっているので、堕落した世界の誤った血統と愛と生命を受け継いだので、これをすべてひっくり返しておかなければなりません。祖父が孫にならなければならず、父が息子にならなければならず、兄が弟にならなければならないという論理が成立します。これを「天地開闢」というのです。天地開闢という言葉は、このときに使うのです。

縦的基準から見るとき、祖父母は最初の神様の立場を身代わりし、二番目のアダムとエバは父母を身代わりし、子女は未来の王子、王女を身代わりするので、家庭に横的に現れた祖父に、神様の身代わりとして侍らなければなりません。これが家庭教育の原論です。

 

27 家庭において厳格でなければなりません。何かの制裁をしても、サタン世界に染まらないように父母たちが責任をもち、管理し、教育しなければいけない時代です。フリーセックス、性解放、同性愛、これは悪魔の計略です。ここから一八〇度異なる方向に戻らなければならないので、天の国は、この正反対の道を行くのです。

ですから、先生のような人が、この世界の反対を受けるようになっています。それで復帰路程の約束をすべて成し遂げたという宣布式をしなければ、実体完成圏に越えていくことができないというのです。永遠の祝福の基準を越えることによって、神様の創造理想である真の愛を中心とした主体の前に、真の愛の相対として一つになることができるのです。

 

28 祖父は天国の特権大使、父母は現世の世界の大王陛下、子女は天国の王子、王女であり、地上の王子、王女です。ですから、祖父は、孫と孫娘を自分の子女よりも愛します。先生が祖父になってみると、本当にそうです。

自分が教育的な基盤をつくって自分の学校に送らなければならないのに、そのような基盤をつくることができなかったときは、祖父の使命を果たすことができないのです。二重、三重の責任を追及するのが孫と孫娘です。孫と孫娘は、地上天国と天上天国を再創造するための出発の父母にならなければなりません。ですから、孫と孫娘がそのような立場に立てるように使命を全うする祖父になり、先祖にならなければならないのです。

第三節 父母の愛と責任

1 子女を育てるときは、自分を愛する以上の愛と心情をもって育てなければなりません。そのように父母の責任を全うするようになれば、その子女が父母の事情を知り、彼がまた、自分の子女をもつようになれば、そのように育てることができるのです。そのようになるときに、初めて彼は父母の悲しみが自分の悲しみであり、父母の喜びが自分の喜びであり、父母のすべき仕事が自分のすべき仕事であり、父母の責任遂行が自分の責任遂行だという子女になります。そうして父母が命令しなくても、その父母の怨讐を自分の怨讐として対し、父母の仕事を自分の仕事として、父母の責任を自分の責任として、父母の事情を自分の事情として成し遂げていこうと立ち上がるのです。そのような子女を立てることが、創造の原則だったのです。

 

2 愛の力はあらゆることを洞察するのです。それは、愛の力だけが可能です。父母の愛の心は、距離を超越します。距離を超越して連絡するのです。皆さんが映画を見ていて、子女に事故が起こると、父母が夢の中で事故が起こるのを見て「ああ!」と驚いて目を覚ます。そのような映画を見たことがあるでしょう。愛の綱を通して反応するのです。愛の綱を通して実像がただそのまま移されるのです。実像だけでなく実体が交流します。ですから、地上で愛の綱に乗って神様の実体に接することができるというのです。

 

3 愛する子女と向き合う父母は、子女に欠点があっても、その欠点を先に探ることはしません。自分の良い点だけに似ることを願います。子女の悪い面を見て、頬をたたいたとしても、それに同情して後悔するのが父母の心情です。それはその時の悪の面を基準としてたたいたのではないからです。自分の良い面に似た小さな部分でもあれば、それを悪い面より大きく見ようとする基準を中心として理解しようとするのが、子女に対する父母の心情なのです。

 

4 父母が子女に、親孝行しなさいと教えてあげて孝子にするのではありません。自ら親孝行しようという心が湧き出るようにしなければなりません。このようなことは一日でできるものではありません。長い期間を置いて影響を及ぼさなければならないのです。影響を及ぼすというのは、父がするとおりに、子女が従ってくることができるように、生活で子女に手本を示してあげるということです。このようなことを実践する、み旨に対する専門家にならなければなりません。

 

5 父母たちは、み旨の生活において模範とならなければなりません。家庭における祈祷生活や家庭礼拝、信仰生活を子女たちに見せてあげなければなりません。また、敬拝時間がどれほど重要かということを認識させてあげなければなりません。その時間には、敬礼式だけで終わるのではなく、み旨を中心として、父母として子女たちを教育しなければなりません。

子女を教育するためには、父母がまず実践しなければなりません。父母が模範となって、み旨の前に忠誠を尽くさなければならないのです。そうして、父母がどのようなことを言っても、子女たちが一言半句も口答えせず、父母を畏敬できる立場に立たなければなりません。そのようにしなければ、子女たちは従いません。子女たちが自分の知っているみ旨と原理を中心として見るとき、教会生活をするに当たって、父母たちが本部で指示する原則を軽視して、その指示に従って生活していないのに、子女たちにだけ原理原則どおりに生活しなさいと言えば、鼻で笑うというのです。

 

6 子女たちが昔見ていた父母と、現在見ている父母に何の違いもないとすれば、その父母は子女たちを教育することができません。ですから、過去とは格段に違わなければなりません。家庭生活や近所での対人関係において、このようなことが問題とならざるを得ません。子女は、自分なりに、「み旨を中心として行く人はこうでなければならない」という観をもって父母を見つめ、マークしているというのです。

 

7 子女たちは、自分たちの父母が悪いのか良いのかを、すぐ分かります。み旨のために動く態度を粘り強く押し進めれば、その環境で認められる日が来ます。夫婦は死んでも、天道は残していかなければなりません。家庭は自分の子女のためにあるとしても、まず神様のために生き、国のために生きなければなりません。これが結局は、自分の子女のために生きる道です。そうしてこそ、子女たちが神様の運と世界の運と国の運と共に存在できるからです。

Luke Higuchi