天聖経: 第138話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第五篇 真の家庭

第三章 家庭の法度と秩序

第三節 理想的な子女と兄弟関係 10-17

第四章 真の子女の教育と家庭天国

 第一節 教育の真の意味と最高の教育 1-4

10 子女が多いことは福です。子女が多いことがなぜ福であり、子女を抱える人がなぜ福が多いのでしょうか。この心情圏を中心として大きくなるので、それだけ天の国の同位権の基準に近い、高い位置に上がるのです。それだけの系列が生じるのです。神様のあらゆる福を受けることのできる相続権をもつので、神様が福を与えることができます。「あなたは福を受けなさい」と言えば、福を受けるのです。そのような権限があるというのです。

 

11 夫婦に子女がいなければ、一代でみな終わります。上下、前後、左右の相対的理想関係がないので、そこで終わるのです。ですから、霊界に行くようになれば、息子、娘を生むことができなかった人は苦しいのです。神様が中心軸にいるのですが、反対の立場で永遠に暗闇を見つめて生きるのです。ですから、子女をたくさん生んで育てた人々は罪を犯せません。また、誰かを憎めません。十二人の息子、娘を育てれば、人間が生存する標準である十二種類の型の人を連れて暮らすことになるので、彼らが動くすべての目的が理解できるのです。

 

12 自分に一番近い相対を中心として、それだけで満足せずに、なぜ子女を残そうとするのでしょうか。子女を残すのでも、子女が少ないほど良いのでしょうか、多いほど良いのでしょうか。人の欲は自分が善の位置に立ったか、高貴な位置に立ったか、自らが価値的存在だと考えれば考えるほど、その価値的存在を中心として子孫をたくさん残したいと思うのです。それが人の本性です。

 

理想的な兄弟姉妹関係

13 家庭には父母がいて、その膝下には多くの子女たちが育っています。その多くの子女たちには、各自の個性があります。様々な個性をもつ兄弟たちが自分を主張できるのは、父母の愛と根が同じだからです。そのような主張は、いくら幼い弟と妹の主張だとしても、兄弟たちが無視できません。なぜ無視できないのでしょうか。父母の愛を中心とするからです。大きくても小さくても、父母が共にある立場では、いくら弟と妹の立場にあっても、その弟と妹は父母の愛と一つになった立場にいるので、彼が主張することを認めなければなりません。また、それが歓迎されるように動くのが、家庭生活なのです。

 

14 兄がいて姉がいるならば、兄の意志と姉の意志が違うこともあり得ます。しかし父母の意志はそうではいけません。兄の意志も父母の意志と連結されなければならず、姉の意志も父母の意志と連結されなければなりません。そうして、その意志を論じるようになるとき、権威があるのです。兄としての権威があり、父母が認めることのできる基盤に立って主張するときは、父母の代わりの兄としての権限をもつのです。そのような立場で主張をしなければなりません。姉は姉としての権威があるのです。いくら弟や妹であっても、父母の愛と一つになって主張するところには、父母と同位圏、同参圏に立つことができます。同じ立場に同参できる権限があるというのです。

 

15 神様を中心として一つになるとき、千態万象に回るようになります。ですから、兄弟間で愛し合うのも、父母が子女を愛するのを見習って、兄は弟や妹を愛さなければなりません。そのように愛し合って一元化された家庭は、家庭愛が花咲くのです。これがまた、社会愛になります。これがさらには民族を愛する民族愛になります。このように愛すれば、世界愛になるのです。

 

16 皆さんが父母の愛を受けるのは何のためですか。夫婦である父母が互いに寄り添い、互いに愛し合うその動機が皆さんによってできているからです。ですから、その動機を中心として兄弟同士が互いに愛し合うその愛は変わりません。それを中心として隣人を自分の体のように考えて生活するとき、正しい社会環境が広がるのです。家庭を中心として見れば、その家庭が蘇生であり、社会が長成であり、国家が完成なのです。

 

17 父母の愛を中心として兄の立場に立った人は、自分を犠牲にしていきながら父母の代わりに弟や妹を愛するのが愛の秩序であり、伝統です。兄という立場は、兄弟の中で一番苦労しなければならない責任がある立場です。父母のために、兄弟のためにです。それが兄だというのです。父母は子女を代表して、子女たちよりもっと苦労するのです。子女のために愛を中心としてそうするのです。その場は涙が交差しても離れたいと思いません。涙を流しながらもついていく道がそこにあるのです。

第四章 真の子女の教育と家庭天国

 

第一節 教育の真の意味と最高の教育

 

1 息子、娘を神様のように育てなければなりません。これが教育の標準です。それでは、神様のような人とは、どのような人でしょうか。顔が大きくて生命力のある、能力の豊かな人ではありません。神様のように愛する人になりなさい、というのです。そのようにしようとするには、完全な人になって神様のような愛で愛そうとすればよいのです。それでは、神様の愛とは何でしょうか。それを分析すれば、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛です。それ以外にはありません。その三種類の愛しかないというのです。

 

教育の真の意味

2 人間を救援するには、教育が必要です。人間の先祖が無知の中で堕落しました。原理結果主管圏から直接主管圏まで行かなければならない段階にあったアダムとエバは、神様の摂理の全般的なみ旨を知りませんでした。したがって、人間の世の中に今まで歴史を通して数多くの偉人たち、あるいは宗教指導者たちが現れましたが、私たちの先祖が分からずに行った道を理解し、神様の本然の基準と一致させる基点を整えることはできませんでした。いかなる宗教、いかなる哲人、いかなる偉人も、その内容を明らかにすることはできませんでした。

ですから、人間の歴史は、無知な私たちの父母から受け継いだ伝統に従って、無知の中で、神様の本来の理想的摂理基準とは一致できないまま流れてきたというのです。ですから、この無知な人間を教育していかなければなりません。

 

3 父母は、生むことだけではいけません。生んで育てなければなりません。教育しなければなりません。何をもって育てなければならないのでしょうか。天の国に行くことのできる教育をしなければなりません。ほかの教育はできなくても、天の国に行くことのできる教育をしなければなりません。天の国に行くようになるとき、自分の一族がとどまるその場に行くことができなければならないのです。ですから、教育をしなければなりません。天上の法に対する教育です。それが一番の教育なのです。

 

4 愛の生命力がそのまま通じる家庭を愛するのが孝子の道であり、国の生命力を中心として愛するのが忠臣の道であり、世界の生命力と愛を連結していく道が聖人の道です。このように見るとき、この方向を通して人倫道徳を教育してきたという概念は、はっきりしているというのです。それが正しかったということを知らなければなりません。世界を愛することが聖人の道理です。これが人倫道徳教育の標準なのです。

Luke Higuchi