天聖経: 第136話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第五篇 真の家庭
第三章 家庭の法度と秩序
第二節 理想的な夫婦と父子関係 10-19
10 互いが愛し合い、互いがために生きるようになれば、被造世界が互いにために生きようとするので、天運の福が自動車よりも速くついてくるというのです。行く道までも闘拓して飛んでいくというのです。ために生きて天理の道理に従ってために生きる夫婦は、天地が保護するので、滅びずに栄え、繁盛するのが天理の道理です。
真の愛の夫婦になり、その次には真の血統の種を生まなければなりません。真の愛を中心として夫婦が一つになり、父母の伝統を相続した子女を生むようになれば、家庭の定着です。神様の一心、一体、一念、一和の本性と永遠の主流である愛の絶対性と一つになり、同じ信仰を中心として、その拡大のために絶対信仰、絶対愛、絶対服従で投入して忘れながら暮らせる人は、天理大道のモデルとして生きているので、滅びても栄えるのであり、栄えても栄えるのです。サタンは存在することができません。
理想的な父子関係
11 子女を生み育ててみた父母たちは分かるでしょう。大切にかわいがっているその息子、娘を通して福を受けたいと思い、幸福を感じたいと思うでしょう。また喜び、福を受けることができる基準があれば、その息子、娘に永遠に残してあげたいと思うでしょう。そのような希望の心をもって息子、娘が美しく育ち、万国から尊敬され、万世にわたって称賛される息子、娘になることを、堕落した人間でも願っています。夜も昼もその息子、娘が傷つかないかと保護し、切ない心情で気をもむのが父母の思いです。堕落した父母の心もそうだというのです。
子女が大小便をして臭いがしても、愛でその環境を忘れられるのが父母の心です。皆さんが赤ん坊を抱いて育てるときに、寝床で歌を歌ってあげ、話もしてあげ、すくすくと育つことを願うその心は、父母なら誰もがもっているでしょう。いくら愚かで不足な子女でも、その子女に足らないところがあれば、父母の心は、その胸がいっぱいになるほど最高の苦痛を感じるのであり、これが解決すれば、その苦痛に反比例して喜びが同伴するのです。
12 力では一つになりません。力の強さで一つになるとすれば、その世界はいつも力が強い人が主管するようになります。しかし、愛をもってするときには、大きな愛をもった人が与えなければなりません。愛の大きな人がために生きなければならないのです。上にいる人が下のために生きなければなりません。主管するのではなく、ために生きて一つにするのです。ですから、母がじっとしていれば、子女たちが来て、母の懐にただ駆け寄るようになります。それは愛でのみ可能です。
父母がいくら困難で苦痛を感じていても、愛する子女が愛の懐に抱かれれば抱かれるほど、力が生じるようになります。もっと困難で苦痛を感じなければならないのに、反対に力が生じます。そこからは喜びが出てくるようになります。疲れ果てていても、愛にぶつかることによって、力が出るのです。
13 父母の心情について見てみるとき、母親の顔がきれいだったとしても、その母親が抱いている赤ん坊を見て、通っていく人が「その子は、奥さんより何千万倍もきれいだ」と言えば、その母親は喜び、うれしく思います。それは、母親がその赤ん坊より何千万倍も醜いという話です。しかし、そのような話を聞いて、「なんですって。私より何千万倍もきれいなら、私は何千万倍も醜いという話ではないか」と言いながら、食ってかかる母親はいません。ただうれしくて、どうしていいか分からないのです。これが母親の気持ちです。
そのような心は誰に似たのでしょうか。母親は結果的存在であって、動機的存在ではありません。息子が父親より劣ることを願う家があれば、その家は滅びるのです。父親は大統領なのに、息子がそれより劣るときは、何代か過ぎていくうちにその家はだんだんと衰退していくのです。最後には、恥ずかしくて穴があれば入りたくなるような身の上になります。
14 父母が子女を愛する、その愛の起源と動機はどこから始まったのでしょうか。男性と女性を中心とする愛は変わる愛ですが、そこから生まれた息子、娘を中心とする愛はなぜ変わらないのでしょうか。これは、その男性と女性を中心とする愛を起源とするものではなく、横的な夫婦の関係によって出てきたものではなく、縦的なある流れの起源を通して出てきたからです。そのような縦的な愛の主体とは誰でしょうか。そのような主体を、私たちは神様といいます。
変わらない愛の主体として、縁をもち得る関係において、連続的に相対を追求する本然の位置に立っている、ある絶対的な主体を必要とするのです。その愛は、夫婦が自分勝手にできる愛ではありません。その愛の前に「私」がしたければして、したくなければしない、そのような愛ではありません。それは切ろうとしても切ることができません。横的な人間としては、どうにも手をつけることができないのです。ですから、父母が子女を愛するその愛は万古不変です。
15 父母は、子女のへその緒が離れる瞬間、子女を愛する心が自然に発生するのです。すべての生物は、いかなる上下も問わず、自分の子を愛さざるを得なくなっています。愛するときに、生命を投入して、生命を踏み石にしてでも愛したいと思う作用があるのを見るとき、万古不変に近いものが父母の愛です。それは絶対性を求めていくときに、絶対それ自体にはなれませんが、人間に一番近い踏み石にはなることができます。たった一つの足場になり得るのです。これが人間の世の中において、それでも永遠の足場になっています。
そのような父母の愛は、どこから来たのでしょうか。それは、父から何か勧告を受けて学んだものでもなく、自分の相対から忠告を受けて学んだものでもなく、自分自身がそうしなければならないと考えて出てきたものでもありません。自然にそうなったのです。愛というものは、自然にそうなるところで成立するのです。
16 先生が幼かった時、鳥の巣を本当にたくさん観察しました。すると、小さな鳥たちは、体の大きな人が上って巣を観察する所にもやって来て、やたらにつつきます。そのようなときは、命懸けなのです。追い払えば、飛んでいったあと、またやって来てつつきます。そのようなものを見るとき、自分の生命を越えて愛する子を保護しようとする、動物世界の力があるのを否定することはできません。人も同じです。愛のために生命を投入することができなければなりません。そのような人が真の人です。本当に善の人とは、どのような人でしょうか。愛を根として自分の生命を投じていきながら、愛する人を保護しようとする人です。
17 子女に向かう父母の愛の限界点とはどこでしょうか。父母は、子女が幼い時にだけ愛そうとするのではなく、生涯を通して、さらには永遠を通して愛そうとするのです。愛することによって、希望を感じることができ、愛することによって、一層価値を感じることができる父子関係が結ばれるとすれば、無限の力と無限の刺激と無限に新しいその何かが、その関係圏内で発生するというのです。
18 愛はどこから出てくるのでしょうか。自分からではありません。それは父母から出てきます。愛の起源は自分ではなく、父母だからです。原因のない結果はありません。愛を中心としては、主人は自分ではないということが分かるので、自分を前に立ててはいけません。ですから、父母の前では「はい、お父様、お母様、そうです」と言うのです。父母が「お前にいくら名声があり、力が強くても、父母の前では果たすべき道理に外れることはいけない」と言えば、「はい、お父様、お母様、そうです」と言うのです。愛があるからです。父母は主体であり、子女は対象だからです。
主体は対象のために生き、対象は主体に従わなければならないのが天理の原則です。これを破綻させる日には、その家は全くの無価値な結果に落ちてしまいます。この天理の原則というものは、いくら無知な人間だとしても、天性によって生まれたので分かるのです。ですから、いくら外的に力の強いチャンピオンだとしても、父母の前では頭を下げなければなりません。
19 何より父母の愛が最初です。その愛を動機として、その愛で円満に育った人ならば、愛がどのようなものかということが分かります。父と母の間にある愛がどのようなものかということを、父母を通して学ぶようになります。父が母を愛し、母が父を愛するその事実は、子女たちには二つとない喜びになります。
ですから、個々人において縦的な立場、すなわち一対一の立場に立って愛を受けることができ、体恤することができるのは、父母をもつ立場でなければなりません。また父母たちは、一対一の立場だけでなく、一人の息子なら息子を中心として、一対二の愛を与えることができます。一対二の愛を受けることのできる立場が子女の立場です。