天聖経: 第87話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、

もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第四篇 真の人間

第一章 神様が創造された真の人間

第一節 真の人間は神様の実体 15-19

第二節 真の人間の心と体 1-10

15 神様は、すべての万物を造られ、その万物の主人公として人間始祖をエデンの園に造られました。人間を造られるとき、遊び半分で造られたのではありません。趣味で造られたのではありません。人間を造り、万物を代表する中心として立てるまでの神様の苦労と精誠は、到底言葉にできないものでした。

神様が人間を造られるとき、あらゆる精誠をすべて尽くされ、また御自身の心血と生命の核心をすべて傾けて造られたのであり、愛情をすべて注がれて造られたのです。いかなる力をもってしても、離そうにも離すことができず、分けようにも分けることのできない関係として造られたのです。

このように造られた人間なので、そのような人間を見つめられる神様に初めて平和が宿ることができ、すべての情と幸福は、その人間を通してのみ宿ることができるのです。

 

16 神様は人間の父であり、人間は神様の息子、娘です。神様が骨の中の骨、肉の中の肉、骨髄の中の骨髄をすべて注いで造った人間であるがゆえに、このような人間が神様を引っ張れば、引っ張られなければならず、また神様が人間を引っ張れば、引っ張られなければなりません。神様は、このような関係の中で、内容と目的が一致した人間として造られたのです。

もし、そのように造った人間を見て神様が賛美する言葉や詩があるとすれば、それは世の中のいかなる詩人や文人にも表現できない最高の作品になるでしょう。その対象は神様でもなく、万物でもなく、唯一、万物を代表した人間なのです。

 

17 主体であられる神様と人間の関係において、愛を中心として互いに占領し合う場は、どのような場でしょうか。神様を中心として、人間が弟子の立場で愛を受ける場なのかというと、違います。神様に娘と息子がいて、神様の婿になり、嫁になる場が最高の目的かというと、それも違います。人間はそれよりも一歩さらに踏み込んで、神様の息子になり、神様の娘になることを目的とするのです。それ以外の場は願いません。このような関係が結ばれる場が、正に神様と人間の父子関係の場です。

人間が探し求めていくべき場所、この宇宙の究極的な真理の問題を前にして、誰よりも苦しんだ人が先生です。神秘的な境地に入って、人間が探し求めるべき宇宙の最高の真理が何かということを打診したとき、そのときに得た答えが、父子関係という言葉なのです。

 

18 絶対的な神様のみ前に、人間は相対的存在です。絶対的な愛を中心として一つの体にならなければなりません。そのように、神様とアダムとエバが一つの体になっていれば、そのアダムとエバを中心として生まれた息子、娘は、アダムとエバの息子、娘であり、神様の息子、娘です。そのようになったならば、神様の血族としてこの地上に家庭を成し遂げ、氏族を成し遂げ、民族を成し遂げ、国家を成し遂げ、世界を成し遂げていたはずです。永遠であられる神様の愛を中心として結ばれたその関係は、断ち切る者がいないので、その国自体が神様の愛を基盤とした地上天国になるというのです。

 

19 神様は絶対者であり、その絶対者は私たちの父であり、その父は天地の主権者であられます。これを言い換えれば、その絶対者は、「私」を中心としては父であり、世界を中心としては主権者であり、天の中心であられます。そのため、父という言葉は高貴なのです。霊界を統合できる一番近い場所にあるのもその言葉であり、世界を統合できる一番近い場所にあるのもその言葉です。私とその方が統一され得る最も近い場所にあるのも、その言葉だけです。霊界でも肉界でも、その言葉よりさらに近いものはないのです。

第二節 真の人間の心と体

 

1 被造世界には二つの軸があります。二つの軸があるのですが、見える軸と見えない軸の二重構造になっています。一つの主体を中心として回り、その主体自身も回るのです。体と心が授け受けすれば、回るようになるのと同じです。すべての存在物は、このような原則によって存在します。同様に、堕落した人間世界における復帰の道も、軸を直さなければなりません。人間において体の中心は心です。心を中心として体が連結されているため、体は心を中心として回るのです。心の命令に体が動くのです。心が「東に行きなさい!」と言えば東に行かなければならず、「西に行きなさい!」と言えば西に行かなければなりません。

 

心と体とは何か

2 心とは何でしょうか。縦的であり創造主である父の愛を受け継いだものが心です。そして、横的な父母の愛を通して受け継いだものがこの体です。そのため、心は縦的な「私」であり、体は横的な私です。主体と対象の関係です。私という存在において心と体が焦点を合わせることにより、初めて環境的に縦横の一致が起きるのです。

愛を中心として、縦横において、縦的なプラスと横的なマイナスが九〇度で焦点を合わせる理想的な結着点が中央点です。中央点には何もないのですが、すべての力がその一つの焦点を通るのです。反対がありません。ジャンプ、ダイビングして入ってくるのです。台風のように入ってきます。それを防ぐ方法がありません。ですから、神様は知恵の王です。

この中心は真空状態です。真空状態では、引き寄せる力がそれに比例し、何百倍も強くなります。そのため、「来なさい」と言わなくても、引き寄せられるようになっているのです。引く力が強いので、その前にあるものは高い山でも何でも、すべて崩すのです。

 

3 心は、縦的な主人です。神様の血統を受け継いだので、縦的な主人です。体は、完成したアダム、横的な血統を受けた「私」です。私には二人の主人がいるのです。そのうちの一人は、垂直に受け継いだ神様の血統です。神様の血統だけがあってもいけません。神様の血統を中心とした垂直の前を横切って、水平線が連結されなければなりません。それで、分かれた東酉南北が中央に通じることができなければならないのです。垂直の前に水平線が連結され、九〇度になるのです。東、西、南、北が九〇度、垂直を中心として距離が同じ円形を形成するときは、すべて同じなのです。

 

4 心と体を見れば、心は主体であり、体は対象です。この二つが闘うのですが、なぜ闘うようになったのですか。体がプラスになったからです。主体である心の前に、体が永遠な対象にならなければならないのですが、これがもう一つの主体になりました。それが堕落です。

 

5 神様の愛が垂直的な愛だとすれば、水平的な愛がなければなりませんが、その水平的な愛は誰が占めることができますか。誰が占めるべき愛の場所でしょうか。その場は、堕落せずに完成し、本然の真の愛と和合しなければならない真の先祖の位置です。そのようにして一つになっていたならば、その愛を通し、神様の心と体に似て、父母の心と体に似て生まれることができたでしょう。これが「私」という存在です。

 

6 心は垂直な「私」であり、体は水平な「私」です。垂直の父母と水平の父母が一緒に私を造ったのです。彼らから真の愛、真の生命、さらには真の血統を受け継いだのです。私はそのようになっています。真の愛で一つになって造られたのが私です。私は宇宙の中心であり、愛を代表した存在です。また公式の中心です。私は、水平の愛の中心存在だというのです。水平の愛と垂直の愛が合わさって一つになった、真の愛の中心存在です。それが正に私なのです。

 

7 自分を見れば、心は縦的な面を代表し、体は横的な面を代表します。「心が正しい」という言葉を使います。正しいというのは何かというと、垂直にも合い、水平にも合うということです。言い換えれば、立てておけば垂直線にも合い、寝かせれば水平線にも合うということです。心が縦的ならば体は横的です。したがって、心が願うとおりに体が良く授け受けすれば、心の苦痛がなくなります。そのようなとき、よく育つのです。肉体的苦痛も苦痛ですが、心の苦痛がより恐ろしいのです。それは、縦的なものが中心だからです。

 

8 私たちの体と心は、置かれている位置が違います。心は縦的であり、体は横的です。これが一つにならなければ、水平にならなければ、本質的な神様の絶対的愛の方向に一致できる垂直線を引くことはできません。この垂直線は、二つではなく一つです。それゆえ、一番努力しなければならないこと、特に信仰生活をする私たちが努力しなければならないことは、心を中心として、どのように体を一つにするかということです。

 

9 人は体と心の二重になっていますが、心は縦的な面を身代わりしており、体は横的な面を身代わりしています。「あの人は心が正しい」と言うとき、それは水平を中心として見たということです。垂直に見て語る言葉ではありません。「その人は正しい」と言うとき、その「正しい」というのは、水平に対して語る言葉です。

仏教では、参禅を通して、心とは何かを研究してきましたが、いまだに心が何か分からずにいます。心は縦的な「私」です。また体は横的な「私」です。ですから、横的な私と縦的な私が統一される場で、私という人格が完成するのです。何を中心としてこの縦的なものと横的なものが統一されるのでしょうか。共鳴できる本質を通して一つになる所において、完成を論じることができます。それはお金でもなく、知識でもなく、権力でもありません。ただ、神様の真の愛によってのみ共鳴するのです。

 

10 体は水平を象徴し、心は垂直を象徴します。垂直と水平が九〇度を備えなければなりません。この九〇度が四つ合わさって三六〇度にならなければならないのです。そのようにならなければ、完全な人になれません。ですから、垂直を中心として一つにならなければなりません。体と心が一つになるとき、体を中心として一つになることはできません。心が移動することはできないのです。水平の体が調整して、垂直の心と完全に一つになり、九〇度で一つになれる「私」を求めなければなりません。その私というものは、人間が成熟して初めて愛を知るときに見つかるのです。東で暮らす人が塀を越えて西を眺め、西に住む人が塀を越えて東を眺めるためには、成熟しなければならないのです。

Luke Higuchi