天聖経: 第108話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、
もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第四篇 真の人間
第三章 真の人間に復帰する道
第四章 真の人間が行くべき生涯路程 14-15
第二節 自己主管完成の道 1-13
14 父母と自分が一つの場所から共に出発したという事実は、驚くべきことです。父母の愛は「私」の愛であり、父母の生命は「私」の生命であり、父母の理想は「私」の理想として決定することができるのです。
父母は、子女を見つめるとき、「これは私の愛する息子、娘だ」と言います。これは自分の愛と自分の生命、そして自分の理想の実体であることを父母は感じ、悟り、知っているのです。愛する息子、娘とは、一日会わないだけも会いたくなり、ついさっき会ってもまた会いたいのです。それは、どんなに離そうとしても離すことができない骨の中の骨であり、肉の中の肉です。そこには、すべての理想がかかっているのです。
今日、堕落によって真の愛と真の生命、そして、真の理想をもつことができなかった人間世界に生まれた父母であっても、そのように子女を愛することを知っているのに、そのような父母の主体であられる神様は、それよりもっと愛するというのです。本来、堕落していないアダムとエバは、神様の直系の息子、娘であり、神様の王孫でした。アダムとエバは、天上天国と地上天国を受け継げる王子、王女だったのです。
第二節 自己主管完成の道
1 人間自体が矛盾した存在であるという事実を見るとき、人間がある基準に達せずに故障したか、落ちてしまったという観念を導入すれば、神様がいるという理論を発見できます。ですから、堕落という言葉が、どれほど有り難い言葉か分かりません。
堕落したために矛盾した立場に立ったのです。堕落したというそれ自体を見るとき、神様がいると語ることが可能となり、宇宙全体が落ちた、故障したと語ることが可能になります。私たちは堕落したので矛盾する以外になく、私たちが矛盾したので、完全な神様は矛盾した私たちと共通の立場にいることができないのです。このような論理的追求から、神様の存在性を確定することができるのです。
心と体が闘う矛盾した人間
2 神様が万物を造られるとき、絶対的な目的をもって造らなかったとすれば、神様は絶対的な方になれません。堕落した人間も一つの目的を中心として、その目的を達成できる物を作っていこうとします。人間自体内に、それぞれ異なる二つの目的を追求する体と心が存在するという事実は矛盾しています。絶対的な神様が造った被造物として、そうであってはならないというのです。
神様はお一人なので、その方が造った被造物も一つの目的をもたなければなりません。そのような一つの目的の中で、神様の子女の名分をもって生まれた人間ならば、一つの目的と関係を結び、一切がその目的を中心として関係を結ばなければならないにもかかわらず、「私」という個体において一番近い体と心の衝突が起きているというのです。これは人間が堕落したからです。
3 人間が堕落しなかったならば、本来天国で暮らすようになっており、天国のすべての生活条件に一〇〇パーセント適応できるようになっていました。ところが、堕落した世界になったため、私たちの心と体は、磁石が逆さまになり、南北がひっくり返ったのと同じなので、完全に置き替わっているのです。プラスとマイナスが完全に反対になっているのです。
絶対的な神様がいるならば、その神様は一つの観念をもたなければなりません。一つの思想をもたなければなりません。神様を原因として、その結果として生じた人間であることが間違いなければ、そして、原因となった神様の考えが一つであるならば、その結果となった人間も一つの考えと一致しなければなりません。
ところが、矛盾した人間になったというのです。いくら見ても矛盾です。堕落が分からなければ、そのように緒論づけるしかありません。堕落したので、プラスとマイナスの方向がひっくり返っているのです。心は神様に向かっていこうとするのですが、体は逆さまになっています。ここに衝突が起こるのです。
4 人間には、善の要素もあり、悪の要素もあります。これが問題です。「私」という一個体を見れば体があり、心があります。しかし、この体と心がいつも仲良くしていないのです。心は「このように行きなさい」と言うのに、体はいつも心が行こうとする方向にブレーキをかけます。「そっちに行かないで、こっちに行きましょう」と言うのです。そのため、今までの歴史過程に来ては行った多くの預言者や烈士たちは、心と体をどのように調整するかという問題で悩んだのです。
5 心と体が互いに一つになれず、一つは東に行こうとするのに、もう一つは西に行こうとしながら、互いに相反した結果を追求するというのです。心が行こうという所に行けば、堕落した今日の人間の世の中とは違う所に行き、体が行こうという所に行けば、堕落した所に行くのです。
この体は、何かを食べさせてあげれば、「もっとよく食べさせてほしい」と言い、休ませてあげれば、「もつとよく休ませてほしい」と言い、人のものもすべて自分のものにしようとし、自分を中心にして自分だけが一番だというのです。他の人はお構いなしです。心は体と反対です。心はいつも「人のために犠牲になりなさい」と命令します。「人のために生きなさい。かわいそうな人を助けてあげなさい。貧しい人がいれば助けてあげなさい。公的な立場で、大衆のために体を捧げなさい。体を犠牲にしなさい」と言いながら、心はいつも体とは違う方向へと指導するのです。
6 本来、人間の心と体には神様の愛が入り、内外で矛盾や相反、または闘争があってはいけません。ところが、人間が神様から離れていき、サタンを中心として外的な愛を行ったことが動機となり、体と心が相反した立場で闘争する結果が生じたのです。
そして、外的な体を中心とした愛が、内的な心を中心として、理想的で永遠な生命の起源となる神様の愛に背く歴史の結果が生じたのです。ですから、外的な愛、すなわちサタンの愛を取り除き、そこに本然の内的な愛、すなわち神様の愛を相続して体と心を糾合しなければなりません。そうしてこそ、ここから統一が始まるのです。
7 宗教の世界に行けば行くほど、困難が相反して入ってきます。自らの体の欲望の要件をすべて脱皮して越えるまで、反対作用が起きるのです。ですから、宗教では、体を強制的に打ちなさいと言います。零点の体をつくるところに神様の願いが提示されると見るのです。そのため、絶対的な立場で肉身を完全に否定するところから、真の宗教の起源が成立します。
人間が行くべき公式的な路程があります。故障したなら、故障したものを必ず、本来創造するときの、言い換えれば工場から出てくるときの設計図によって、そのまま再び合わせなければなりません。再現して合わせなければならないというのです。修理するには、最初に造るときよりもっと力が要ります。それは、神様が創造されたときよりも、修理するほうがもっと難しいということです。これが人間完成の道です。
8 「私」自身が、変わらない心の基準を神様の心情世界に一致させ、その心情を中心とした心が、「私」の生において、体を調整する主体的な立場に立つことができるかということが問題です。いつでも、夜でも昼でも、二十四時間相対的な立場で、マイナスのような立場で「私」の体が心と一つになることを願う力の作用が、私の体と心に広がれば、その力は宇宙を動かせる力と通じます。私の心がプラスになり、私の体がマイナスにならなければなりません。ところが、心もプラスであり、体もプラスになっています。プラス同士では相反するため、この体が怨讐なのです。これを、どのようにマイナスにするのでしょうか。これが、宗教が明確にしていくべき道です。
9 神様のみ旨の道を行こうとすれば、体と心が一つにならなければなりません。体が主体になっているので、心を中心として体を征服しなければなりません。それで修養の道は、体が言うことを聞かなければ、「この体め!」と言って打ちながら歩むのです。断食をし、節制をし、自己制裁を加え、すべてのものを否定させるのです。
宗教の道には、してはいけないことが多くあります。劇場の前にも行くなと言い、恋愛もするなと言います。お金が問題ではなく、知識が問題ではありません。体が心をいつでも攻撃できるように一〇〇パーセント武装し、白兵戦をする態勢で一時も逃さずに狙っています。これをどのように解決するか、これをどのように越えていくかということが皆さんの闘いです。これを越えずしては神様のみ旨が成就されません。
10 修行している人々を見れば、霊界に通じるために多くの精誠を尽くします。ところが、男性が道を修めるとき、最後まで行くと、女性が妨害します。美女が現れて惑わすのです。これがサタンの武器です。また女性が精誠を尽くしていけば、美男子が現れて惑わすのです。
悪魔が天地を破壊した動機を超えて、新しい根本を探し求めて神様の本性的世界に触れようとするので、悪魔サタンがこれを妨害するために、男性の前に一番の女性を動員するのです。世の中の男性の中で、美人を動員してその色仕掛けに引っ掛からない男性はいません。また、いくら道を修めた立派な女性でも、体格の良い天下の美男子を見れば、我知らず目よりも先に手が行くのです。じっとしていても体が先に行くのです。愛の引力によって、プラスとマイナスのような引力によってそうなるのです。
11 宗教は、独身生活をしなさいと教えます。愛を防ぐ盾だというのです。肉身が怨讐なのですが、この怨讐には三大武器があります。第一に食べること、その次に眠ること、その次が情欲です。そこに先生もぶつかりました。先生がこれを超えるためにどれほど涙を多く流し、どれほど身もだえしたか、皆さんは知らないでしょう。
これに勝つことのできる蕩減条件を立てるためには、監獄に十年入っていることが問題ではなく、どんなことでもすべてしなければならないのです。甘美な神様の愛を受けるときは良いのですが、このような壁にぶつかったときはどうするのかというのです。先生は、このままでは万民を救うための神様のみ旨を成就できないことが分かったので、この道の向きを変える方法はないか、という問題にぶつかったのです。
12 主管性をどのように復帰しなければならないのでしょうか。悪のサタン世界では、主管性を強制的に復帰しようとします。「お前は私が支配しなければならない」と言いながら、むちを持ち、手段、方法を選ばずに主管しようとします。それではいけないのです。
本性的主管性の復帰は、何を土台にしなければならないのでしょうか。今日のサタン世界と同じように、手段、方法を選ばずに強制的にするのではありません。自分が出世するために第三者を犠牲にし、謀略にかける方法ではありません。
神様は時代を超越する主管性を提示してこられました。それが犠牲と愛です。犠牲と愛の主題を前に立てて、あらゆる辱めと困難を克服していけば、その環境にいる人々が自動的に、主管性をもつことを願うようになるのです。自動的な主管性を願うというのです。
心と体が一つになった境地
13 アダムとエバも、体と心の二重構造になっています。心が内になり、体が外になっています。このような個体が、内外に一体になっています。このように一つになった男性と女性が、再び主体と対象の関係で横的に一つになっています。言い換えれば、女性も内外に一つとなり、男性も内外に一つとなり、その男性と女性が愛によって一つになるのです。
本来、堕落がなかったならば、体と心は何によって一つになるのでしょうか。道義的な、何かの観念や考えで一つになるのではありません。何かの力によって一つになるのではありません。神様が私たちの体と心を分立させた動機は、愛を具体化させるためです。愛を具形化させるためであり、四方に適用させるためです。一点に定着させるためではなく、全体に活用することのできる環境圏をつくるために、愛を必要とするのです。