天聖経: 第104話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、
もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第四篇 真の人間
第三章 真の人間に復帰する道
第二節 祝福を通した復帰の道 13-21
第三節 真の人間の生活 1-5
13 堕落は長成期完成級で起きたため、これを原状に回復するためには、堕落したのと反対の経路を通して帰らなければなりません。アダムとエバが愛の問題を中心に堕落したので、私たちの復帰路程においてもその基準に到達したならば、必ず愛の問題を中心にして越えていかなければならないのです。
今まではサタンの父母から愛を受けていたので、愛の問題を克服しようとすれば、神様の愛を中心とした真の父母の愛に連結されなければなりません。そのようにしなければ、これを克服する道がないのです。ですから、堕落した父母の血統を受け継いだ堕落圏にいる人類は、最後には父母を迎え、縦的に一つになって堕落圏を克服する道を探っていかなければならないのです。これが原理の立場です。
これを克服するのは一人ではできません。必ず男女がペアにならなければなりません。これが統一教会で行っている祝福です。ですから、祝福は自分なりにしてはならないのです。縦的中心である父母を中心にしなければならないのです。
14 人間が堕落することによって、まず万物を失いました。そして、実体がサタンに汚されました。そして、心情を奪われてしまいました。このすべてを蕩減復帰しなければなりません。万物の問題、実体の問題、心情の問題を完全に神様を中心として解決し、完成期間を通過しなければ、完成基準に到達できません。これが原理原則です。万物を復帰しなければならず、実体を復帰しなければなりません。そして、心情を復帰しなければならないのです。これを横的に見れば、万物は蘇生であり、実体は長成であり、心情は完成です。
15 人間は、祝福という言葉に最高の意味を付与します。この世の人々は、自分の事業がうまく行けば「祝福された、福を受けた」と言います。あるいは良い息子、娘をもてば、「あの人は福を受けた」と言います。
祝福を受けるのは男性と女性です。それでは、男性にとって最高の福とは何であり、女性にとって最高の福とは何でしょうか。第一に、生命の関係が結ばれる場所から愛の関係が出発します。これが最も貴いのです。その次に、生命が人間だけのものではなく、生命の中心となる永遠の神様の生命と結束し、愛が私たちだけの愛ではなく永遠の神様の愛と結束し、愛の理想を受け継ぐ場所が、最大の祝福の場です。その基盤の上に理想を描いていく人生が祝福なのです。
16 祝福は、天地父母を「私」が継承することであり相続することです。神様が天地を創造し、アダムとエバと結ぼうとした心情的関係が結ばれなかったのです。それが結ばれることにより、千年、万年、子孫を繁殖するのです。そうして千年、万年、一つの世界を造ろうとしたのですが、それができなかったので、それを再び継承するというのです。そのため、父母の代わりに継承する場です。父母が今までサタン世界で闘って勝利した栄光ある勲章とメダルと、すべての偉業、勝利した偉業、その看板をすべてかぶせて相続させるのです。
17 有史以来、家庭的救済の道理を初めて体系的につかんだのは統一教会だけです。ですから、統一教会を信じる人は家庭が救われ、天国に入ることができるのです。このような家庭を築く行事が合同結婚式です。世の中であざ笑い、ありとあらゆることを言いますが、この祝福の内容がどれほど素晴らしく、どれほど驚くべきことか、彼らは知らずにいます。
私たちは、天倫と人倫、天情と人情が合わさった真の息子、娘の姿で、真の長男と真の長女の位置で家庭を築き、神様を中心とした地上生活をすることができなければなりません。
このようになるとき、この地上に生まれた真の人間としての目的を完成し、神様が人間を創造され、期待された目的が達成されるのです。この道が真の人間の行くべき道です。
18 私たちは、今まで復帰の因縁を越えて、エデンで堕落したアダムとエバよりも高い価値をもち、真の父母の功績の基台の上に立ちました。そのため、私たちはイエス様が備えることのできなかった民族の基準を身代わりすることができ、氏族の基準を身代わりすることができ、家庭の基準を身代わりすることができ、夫婦の基準を身代わりすることができる圏内にいます。そのような圏内で、父母の言葉と生活と心情に絶対一致する信仰基準に従っていけば、難なく神様のみ前で祝福を受けることができるのです。
19 皆さんは、誰を中心として祝福を受けられますか。父母です。絶対的に信じられる真の父母です。「私は真の父母を中心とした血肉をもって出てきた。いかなる力もこの関係を断つことはできない」と言える絶対的信念をもたずに祝福を受ければ、天罰を受けます。これから皆さんがこの条件に引っ掛かって倒れる日があれば、不幸なことになるでしょう。皆さんは、歴史を代表し、善の先祖を代表して現れました。善の先祖とこの時代の自分の氏族を代表して現れた、厳粛な場にいるということです。
20 父母の愛を通して完全に復活した自分が、手の先から足の先まで生きていることを感じながら、感謝できる立場に立ってこそ、天に帰ることができるのです。しかし、足の先にありとあらゆることがすべて縛られているので、皆さんはこのような現実を踏み越えていかなければなりません。
その道は、いくら千辛万苦の受難の道だとしても、渡っていかなければならない運命の道ですが、一本のわらもつかめないほどどうすることもできない状況の中で、今までそのどん底に落ちて死んだ人が、どれほど多かったでしょうか。そこで数多くの個人と家庭、氏族が滅び、数多くの国が滅びました。その崖から落ちてすべて死んでいったというのです。
しかし、その崖のある谷間に橋を架けてあげることができるならば、それは国と取り替えることもできず、この世界と取り替えることもできません。このような高貴な価値が真の父母によって成し遂げられたという事実は、天地を一度にすべて与えられるよりも貴いのです。
21 皆さんの血の中には、サタンの血が蠢動しています。ですから、神様が近くに行くことのできるすべての要素を備えられていない自分自身の恥ずかしさを嘆き、これを呪い、踏み越えてからこの場に来なければなりません。皆さんは、父母様が痛みを味わっているこの道を、愛する心と感謝の思いをもって行かなければならないのです。
この道は、皆さんの考えと皆さんの頭で、比較して良し悪しを決める道ではありません。ここにおいて、新たに血統を転換できるのです。血統が転換されるというのです。祝福の場は世界で最も良い場です。その祝福の場は、皆さん自体で完成するのではなく、完全に父母様の愛によって完成するのです。
子女が父母の懐から生まれれば、立派であってもそうでなくても、その父母の形態に似るのです。それと同じように、統一教会では、真の父母の道理を教えてくれます。それが皆さんには福の中の福なのです。
第三節 真の人間の生活
1 真の愛の人生は、一言で言うとために生きる人生です。人が自分のために与えてくれることを願う前に、まず人のために与える生き方です。そして、人のために与えたことを忘れてしまう生き方です。与えてあげたといって何かを期待する生き方ではありません。与えても、もっと多く与えることができずに心を痛める生き方です。ために生きるにおいても、頭を下げて与える生き方です。それが父母の愛であり主人の愛です。人類の真の父母である神様がそうなのです。
ために生きる人生哲学
2 神様を愛するほど人を愛するようになれば、神様が「私」を愛するように、また人が「私」を愛するのです。ですから、聖書においてイエス様も、「人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう」(マタイ一〇・三二)と言われました。同じ道理です。神様を愛するように人を愛しなさいというのです。
そこにおいては、何を投入しても考えず、惜しまず、何を投入したか記憶してはいけないというのです。食べるものがあれば、それを食べずに取っておいて、自分が食べられなくても与えたいと思い、一人では食べられないといって食口たちのことを考えられる、そのような父母の心を備えた責任者にならなければなりません。
3 いつでも神様の愛を中心として主体にならなければなりません。影響を及ぼさなければなりません。影響を及ぼすというのは、どういうことでしょうか。与えなければならないということです。与えるときには、どのように与えなければならないのでしょうか。食べ残した残りかすを与えてはいけません。食べ残した残りかすをあげれば、食べてからも気分が悪く、唾を吐くのです。
餅をあげるにしても、あれこれ取ったり置いたりしてからあげるときは、かえってあげないよりもっと気分が悪いというのです。五つある餅を人にあげるのに、半分くらいそのままあげてこそ「有り難い」と言うのであって、あれこれとつまんでからあげれば、世話になる人が、あとから批評するのです。ですから、与えるときは、神様と共に父母の心情で与えなさいというのです。
4 自分を中心として作用しようというのは悪をもたらしますが、全体のために作用しようというのは発展をもたらすのです。全体のために行くところには、すべてのものが門を開くというのです。個人も門を開き、家庭も門を開き、氏族も門を開き、民族も門を開き、世界も門を開き、天の国も門を開き、愛の道やすべての道が門を開いて歓迎するというのです。統一教会は、このような観点から、ために生きる道を行きなさい、ために生きなさい、ために生まれた、という天理を教えるのです。
5 もし皆さんのために誰かが心から生命を尽くし、犠牲になりながら一〇〇パーセント与えた人がいるとすれば、皆さんの本心がその恩を返すのに、五〇パーセントはポケットに入れて、五〇パーセントだけ返したいと思うでしょうか。それとも、あるだけすべて返したいと思うでしょうか。誰でも、もっと返したいと思うのが人間の本心です。
心から愛して与えたことを知れば、一〇〇パーセント以上返すというのです。このようにすることによって、ここに永遠という概念が設定されます。永遠が始まるのです。ですから、このような原則を立てざるを得ません。ここから発展と繁栄が広がるのです。