天聖経: 第61話

第三篇 真の愛

第一章 真の愛の根源

第一節 神様の真の愛 1-17

1 神様は、どのような方でしょうか。愛の神様です。ですから、パウロは「だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか」(ローマ八・三五)と言いました。イエス・キリストも、神様の愛がなければ、取り立てて語るほどの人ではありません。それで私たちは、神様の愛を何よりも好むのです。神様の愛は、生命の源泉であり、幸福の源泉であり、平和の源泉です。

神様の愛とは

2 神様の愛は、太陽よりも強いのです。朝に太陽の光が出ると、すべての植物の芽は太陽に向きます。すべての生命の起源であり、人間の本心の起源であり、理想的要素の主体的な起源になるのが神様の愛です。

3 来たるべき主には本来、神様の真の愛があり、神様の真の真理があります。この真理によって家庭が広がるのであり、国家と世界が広がるのであり、個人的、家庭的、氏族的、民族的、国家的、世界的な愛と理念と人格が出発するのです。このようなことは個人から出発します。ですから、個人として正しく生きる人は、地の果てに行ったとしても世界のために生きる人です。愛の世界ではそうなのです。

心情の世界で一時間生きることを千年の歴史に誇ることができ、一日生きることを万年の歴史に誇れるよう、高貴な体験ができるようにするのが真の愛です。真の愛は、細胞が膨張する気運まで感じることができます。そのような世界は、神様の愛がある世界です。その世界は、言葉で表現するのは難しいですが、あたかも、のどかな春の日に雲に乗って飛んでいくような感じを与える恍惚の世界であり、すべての細胞が踊りを踊るような世界です。

4 神様の愛を何と表現することができますか。暖かい春の日に、空には白い雲がふんわりと浮かんでいて、地上ではかげろうが揺れ、虫が飛び交い、ありも世の中を見物しようと動き回って出たり入ったりし、さらさらと流れる小川のほとりには、綿毛のついた種が芽を出し、かえるが春の日の歌を歌い、蜂と蝶が群れをつくって飛び回る、そのような環境に酔いしれて眠りそうになりますが、眠らずに、うれしくていつまでも「いいな」と言える、そのような味だと言うことができます。神様が求める理想相対を中心として感じる気分は、蝶が飛び、蜂が飛んでくる花園のようなものです。

5 神様がいらっしゃる所には、愛が満ちあふれます。与えれば与えるほど、もっと与えたいと思い、受ければ受けるほど、そこに千万倍加えて返したいと思うのです。そのような所が天国です。そこでは、もっと与え、もっと受けることができるので、爆発的な刺激を感じるようになります。すべての細胞が、はち切れるような刺激を感じるのです。神様の愛は、そのようなものです。

6 善の人とは、どのような人でしょうか。貴く良いものを自分だけのものにしないで全体のものとし、またその価値を全体の価値に連結したいと思う心をもった人です。天地を創造された神様は、究極的な善の方であり、すべての万物の根本になる方であり、愛の主体であられる方です。ですから、神様は、御自身が本当に信じることができ、愛することができ、すべてのことを任せられる人がいるならば、最も貴いものをそっくりそのまま譲り渡したいと思うのです。これによって、私たちは、自分に最も貴いものを本当に与えたいと思う心が天理の原則であり、人間の本然の心であることを推し量れます。

7 神様の愛は、父母の愛、夫婦の愛、子女の愛を代表します。もちろん、そこには兄弟の愛も入り、これを拡大すれば国家や世界の愛も入ります。神様の愛は、父母の愛であり、夫婦の愛であり、子女の愛だというのです。これが最高に紫晴らしい言葉です。愛の力は、すべてのものを治めることができるので、運命の道も意のままにすることができます。もし、このような愛をはっきりと知ったなら、この愛の力をもってすべてのものを治めることができるので、私たちの運命の道も意のままにすることができるのです。

8 神様が必要とする愛は、絶対的愛です。神様が絶対の愛、唯一の愛、不変の愛、永遠の愛を必要とされるように、私たち人間も、絶対、唯一、不変、永遠の愛を必要とします。すべて神様に似なければなりません。神様は、男性格と女性格、陽性と陰性でいらっしゃる方なので、そこから分かれて実体対象として創造された人間も、男性と女性に創造され、彼らが結婚するようになると、実体として神様を身代わりした陽性と陰性になるのです。このように、結婚を通して縦的な神様の愛が横的に完全統一されるように追求するのが、神様のみ旨です。

9 神様が私たちに愛を与えてくださるとき、どれくらい与えたいと思われるのでしょうか。「これくらいならいいだろう」という限界を引く愛ではありません。無限に与えようとする愛です。神様は、すべて与えても、「あなたと共に、あなたの中で生きたい」とおっしゃいます。そのようにさせる本質が愛です。神様も、愛の中に入って僕になってもいいというのです。

父親は、愛する息子、娘が自分の食卓の上に上がっても、それを眺めて喜びを感じるのです。愛は法を超越します。神様が今まで愛を下さったといって、人間に、「私は完全にすべてを与えたのに、お前はなぜ与えないのか」と言うことができますか。絶対的な愛をもった神様は、いまだに与えたい愛をすべて与えることができないで、もどかしく思っていらっしゃるのです。自分を主張できない神様です。完全な愛を与えようとしたのが人間に対する創造の原則なのですが、神様は、今まで完全な愛を与えることができなかったので、もっと良いものを与えたいと思われるのです。そのような神様なので、神様のことを思えば思うほどうれしくなるのです。

10 神様が「私は愛である」と言いましたが、その言葉は、夜も喜び、昼も喜び、働きながらも喜び、休みながらも喜び、踊りながらも喜び、泣きながらも喜ぶということです。それで、「私には愛がある。すべてがある」と言ったのです。「すべて」という言葉は、その中にすべて入っているということです。愛を一番好む方が神様です。そのような愛をたっぷりもっているのが神様なので、人間がその愛を知って昧わえば、死んでも神様を離すことができません。

11 縦的な愛を受けようとすれば、堕落していない本来の横的な九〇度を形成し、男性は右側、女性は左側になって二人に火がついて調和しなければなりません。そのようになるとき、男性と女性を中心としてその中で神様に侍ろうとすれば、訪ねていって接ぎ木しなければなりません。接ぎ木するのに、どのように接ぎ木するのでしょうか。平衡にならなければなりません。そうすれば個人的にはどのようになりますか。神様は、愛の骨髄です。それを知らなければなりません。愛を中心として神様の愛は骨の愛であり、人間の愛は肉の愛です。骨と肉が一つになって形を備えるのです。皆さんに骨があるように、神様の愛は骨の愛であり、真の父母の愛は肉の愛です。

永遠で絶対的な真の愛

12 皆さんの心に永遠の愛がありますか。「神様の愛は私に現れるのだ。永遠に変わりはしない。天地が変わっても、この公約は変わらない」という立場が定まっていますか。神様の愛は、変わらないところに現れます。不変なので、神様の愛は永遠です。変わらない愛なので、神様の愛が私に現れるならば、変わらない心の土台の上に現れます。ですから、人生の間、食べるのもその愛のために食べ、寝るのもその愛のために寝て、活動するのもその愛のために活動しなければなりません。愛のために変わらない完全な基準をもっている限り、神様の愛は現れます。そうでなければ、この宇宙の公約はすべてむなしいものです。

13 神様は、人類の前に、父の立場にいらっしゃる方です。父でいらっしゃるので、自分の息子、娘の前に中心です。人間を創造したとしても、父母の立場にいらっしゃるので、子女に対する立場では子女のために存在するのです。父母は子女のために存在しようとします。

夜も昼も子女が侵害されないかと心配し、子女に何かの問題が起きるかもしれないと保護してあげ、また何か反対される要件が生じるかもしれないと防御してあげるのが父母です。そのような父母の本質を求めていくこと、父母の本質に連結されることが善の道、すなわち愛の道です。このような父子関係の愛を連結させるのが善なので、そのような善の立場を通して目的が成し遂げられるのです。ですから、善には必ず愛がなければなりません。愛ですが、中心的な愛が臨在しなければなりません。そうでなければ、地上で愛の中心を決定することはできません。

14 神様は、今まで御自身と近い所にいる人々と、氏族、国家まで愛を与えられました。神様は、「少ない」と思って受け入れないかもしれないと、さらに補いながら、イスラエルの個人と氏族と国家を祝福してくださいました。そして、それでも不足で、愛する息子を送って祝福してくださろうとしました。彼らがそれでも受け入れないとなると、その息子の命まで与えたのです。このように、一人しかいない息子が死んでも、さらに愛を与えようとする方が神様なので、その愛が帰ってくる日には、天地がすべて理想的な天国に変わるようになります。

15 神様と人間は、どこで連結されるのですか。生命が交流する所、愛が交流する所、理想が交流する所です。その点は、父子の関係にならざるを得ません。「私」が神様と同等になることができるので、そのような喜びはどれほど大きいですか。愛の主体であり、生命の主体であり、理想の主体なのに、祈りが必要ですか。威信と体面を超越するのです。ためらうことなく神様をつかむことができます。神様が抱きかかえてなでてくれ、愛してくれることを体験すれば、骨と肉が溶けてしまうでしょう。

16 神様の愛に接すれば、どうなるのでしょうか。髪の毛も踊り、細胞も踊るというのです。その愛に一〇〇パーセント酔えば、ひっくり返るのではなく、千年、万年、共に住みたくなります。誰かが起こそうとすれば、「起こすな」と言います。このような境地になるのです。「神仙の遊びに斧の柄の腐るのも気づかない(夢中になって月日のたつのを忘れてしまうの意)」という言葉があります。それほど、人間が想像できない高次元の愛に酔うことのできる道があるのです。

17 なぜ、万民は喜びながら神様に従っていくのでしょうか。神様は、万民のためにすべてのことを与え、また与えながらも恥ずかしく思われ、「今はこれだけしか与えられないが、少しだけ待っていなさい。何百倍、何千倍、もっと良いものを与えよう」と言いながら、きょう、与えることで満足するのではなく、与えながらも「未来にはもっと良いものを与えよう」と約束する心の余裕をもっていらっしゃる方だからです。

そのような方と一緒にいれば、たとえ満足に食べることができずに貧しく暮らしても、幸福だというのです。満足に食べることができない立場になると、現実圏内で希望の刺激が衝撃的に感じられるのです。どういうことかというと、かえって新しい決心ができるということです。その場は、未来のためにお互いに慰労の涙を一緒に流すことができる場です。絶望が共にあるのではなく、あすの希望を現在の刺激として考え、お互いに決意して、一緒になって激励できる爆発的な場が、正にそのような場なのです。

Luke Higuchi