天聖経: 第27話
第一篇: 神様
第四章 解放してさしあげるべき神様
第二節 再創造される神様 28-38
第三節 解放してさしあげるべき神様 01-02
28 今から二千年前、ユダヤ教を中心として、その時代において世界的宗教圏をつくり、ローマに反対されながら、天の側に立ってローマを消化できる宗教運動の主軸として立てるために、イエス様を送りました。ユダヤ教が待っていたメシヤを送られたのです。
そのメシヤは、どのようなメシヤでしょうか。ユダヤ教のメシヤです。ユダヤ教のメシヤとして来て、世界的メシヤ路程を開拓しようとして、途中で亡くなられました。すると、ユダヤ教は、どのようになるのでしょうか。今までのユダヤ教のためだけの神様として仕える、そのような神様であってはいけません。
それでは、イエス様がこの地上に来て教えるべきこととは何でしょうか。旧約聖書で教えてくれた神様を、ただそのまま教えてはいけません。新約時代の神様として教えてあげなければならないのです。
29 僕のイスラエルをつくり、僕の国と僕の民族をつくり、ここに神様の息子が来て、その息子を信じ、イエス様のみ言を信じることによって僕から養子になり、イエス様が一段階上がるようになれば、イエス様を信じる人は息子になるのです。
イエス様は、何によって一段階上がるのでしょうか。この地の人間が堕落することによって人類の先祖がいなくなったので、先祖の立場に上がるようになれば、イスラエル民族は養子の立場で接ぎ木され、神様のみ前で相続権に対し得る、息子の名分をもつようになります。ですから、ローマ人への手紙第八章二十三節に、「御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる」とあり、「あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」(ローマ八・一五)とあります(訳注:韓国語の聖書では「子たる身分」が「養子」となっている。)養子にしかなれません。今、キリスト教徒たちは養子です。養子は血統が違うのです。
30 養子になろうとすれば、どのようにしなければならないのでしょうか。これが問題です。養子は僕よりも優れていなければなりません。神側の僕よりも優れていなければならず、サタン側を見ると、サタンは悪の世界の王ですが、そのサタンよりも優れていなければなりません。サタンは本来、天使長でしたが、その天使長は僕だったので、その僕よりも劣る人は養子になることができません。これは原理的です。
また、このサタン世界を自分の手で征服するという信念をもたなければなりません。そうでなくては養子になれません。神様のために生きる道があるとすれば、歴史が始まって以降、どのような人よりも、誰よりも神様のために生き得る代表者が出てきてこそ、養子の出発をすることができます。そのような歴史を標準として、長久な歴史時代、縦的な歴史を経て、一つの民族を動員してこのような養子圏をつくるために、神様は苦労をしなければならないのです。その養子が出てくる目的は、神様を父母として、相続権を受け継ぐためです。
31 神様に本来息子がいるのに、養子を立てることはありません。息子がいないので養子が必要なのであって、息子がいれば、養子は必要ありません。その養子を立てる目的は、真の息子を探すためなのです。その養子は自分が神様の相続を受けても、それは自分のものではなく、神様御自身の本来の息子、娘の前に返してあげるべき相続だという思想をもたなければなりません。そのような養子をつくらなければなりません。養子は、将来来る息子、娘のために、自分が死ぬとしても、生命を尽くし、自らのあらゆるものを犠牲にしても、神様が願われる直系の息子、娘が生まれることを願い、いつもそのために準備する心をもたなければなりません。養子の名を立てなければ、息子と関係を結ぶことができないのです。
成約時代の復帰摂理
32 成約とは何でしょうか。約束を成したということです。神様が創造理想を完成するという話です。それでは、成約時代とは何でしょうか。創造理想を完成した息子、娘、エデンから追い出して失ったそのアダムとエバが、世界的舞台の上で代表的な王権を身代わりできる神側の息子、娘として帰ってこなければならないというのです。ですから、堕落がなかったように歓迎できる個人から、歓迎できる家庭、歓迎できる氏族、歓迎できる民族、歓迎できる国家、歓迎できる世界にならなければなりません。
33 成約時代とは何でしょうか。地上において、家庭を中心として、父母様の愛を中心として理想世界に向かう過程、サタンが讒訴できない新しい世界に前進する過程が成約時代です。成約時代は、原理的に見れば、責任分担を完成した父母圏を意味するのです。
約束とは責任分担です。責任分担の約束を未完成にしたのが堕落です。旧約は昔の約束です。新約は新しい約束であり、成約は約束を成す時です。約束を成すというのは、世界の万民たちが責任分担を完遂することです。しかし、責任分担を果たせなかったために、個人、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙の責任分担が残されたのです。サタン世界まで生じたのです。責任分担を果たせないことによってサタンが生じたので、この責任分担を果たさなければなりません。
34 神様の摂理を見ると、三段階に分かれます。旧約時代、新約時代、成約時代です。キリスト教では、旧約と新約ですべて終わったと思っていますが、違います。成約時代が残っていることを知らずにいます。イエス様が再び来てみ旨を成し遂げなければなりませんが、それが成約時代です。旧約があり、新しい約束があったので、その約束が成し遂げられなければならないのではないですか。再臨主がこの地上に来て、み旨を成就するのです。
35 成約時代は、成し遂げる時代です。個人的に成し遂げ、家庭的に成し遂げ、氏族、民族、国家、世界的に成し遂げるのです。神様の愛と、神様の生命と、神様の血統を中心として連結します。単一の血統、単一の愛、単一の生命の伝統です。このようになれば、サタンは離れていかなければなりません。接ぎ木することによって、サタンの血統的因縁がなくなるのです。
36 旧約時代までには、万物を犠牲にして息子の行くべき道を整え、新約時代には、息子を犠牲にして再臨主、真の父母が来る道を整えたのです。成約時代には、真の父母が犠牲になることによって縦的な神様を地上に迎えるのです。神様は人類の前に真の愛を中心とした縦的な父母であり、真の父母は真の愛を中心として、その縦的な父母の前に横的に九〇度の角度を合わせた横的な父母です。ですから、縦横の愛を中心として、初めて神様の愛と神様の生命が動くのです。神人合徳(和合)が動き、真の父母の愛を中心として、新しい血族が広がっていきます。そうなることによって、人類歴史の中で初めて本然的原理基準を中心として、神様の愛の中で出発した生命の種が地上に顕現するのです。
37 旧約時代までは、万物を犠牲にして息子、娘を取り戻す時代です。新約時代は、息子、娘を犠牲にして父母が来る道を築く時代です。父母がこの地に来て、神様が来ることのできる道を築くのです。縦的父の水平世界を、万民世界を越えてつくらなければならないのが真の父母の使命です。ですから、この水平の父の心情圏がつくられるようになれば、縦的な父の心情圏は、自然にここに来て定着します。そうして縦的、横的な愛を抱ける位置に行けば、ついに世界を越えて神様は核の位置に行き、本然の理想の権限を再び編成したことによって、「すべて成し遂げた」と言うことのできる時代に越えていくというのです。
38 私たちは、神様を希望の主人公として見つめ、信仰の主人公として見つめています。また愛の主人公として見つめています。この希望と信仰と愛の主人公としていらっしゃる神様は、人間をして歴史過程で希望を身代わりした旧約時代、信仰を身代わりした新約時代を経るようにされたので、これからは愛を身代わりした成約時代を経なければなりません。
それでは、今、そのような成約時代、すなわち再臨時代において、永遠不変の一つの中心要素として残されるものとは何でしょうか。それは神様の愛です。それは、全体の中心要素であると同時に、全体理想の要素にもなります。ですから、今まで人間は、この愛のために希望の摂理路程と、信仰の摂理路程を経てきました。
しかし、今、愛の摂理路程を皆さんが歩まないとすれば、神様がこの地上に愛を中心として成すべき統一の足場は、崩壊してしまうというのです。
第三節 解放してさしあげるべき神様
1 復帰摂理を完成するためには、今まで完成できなかったすべての基準、すなわちアダムが堕落した基準、イエス様が成就できなかった基準などを、すべて現世に引っ張ってきて解き明かし、再び蕩減して復帰しなければなりません。これをしなければならないのが統一教会の使命であり、自らそれを実行し、先生のあとについてくる世界に広がる統一教会の食口たちに、それを行わせるのが先生の使命です。
復帰摂理完成の意味
2 私たちが悟るべきことは、堕落していないアダムとエバに賦与していた、その環境的理念世界に関するものを、いかにして再び自覚するかということです。環境がいくら残忍で、いくら怨讐の悪党たちが反対して闘争が起こっても、これを克服できる信念と思想基準が確定していなければなりません。
そうすることによって、今日の社会と私たちの生活において及ぼされる、すべての悪の結果を打開して余りあるようでなければなりません。これが押されて離れていっては、復帰摂理の完成は不可能です。ですから、この世界で生きている、あるいはみ旨と向き合っている個人は、「この世界には私だけ残っており、この世界の問題を解決できるのは私だ」という信念をもたなければなりません。この信念をもたずには、主体であられる神様の前に、環境を代表した相対的存在として立つことはできません。
そのような問題を中心として見てみるとき、「私」がこの世界を越えて、堕落していない理想的なアダムの理念を私の実体的主体思想として立て、そして決意したその決意が、この死亡世界を超越できる心の土台になっていなければ、み旨の道を行くときに、いつも失敗するようになっているのです。