天聖経: 第42 話
第二篇 真の父母
第三章 真の父母と重生
第一節 重生と復帰の道 3-16
3 生まれ変わらなければならないというのは、堕落したアダムとエバの子孫となった父母の血肉を通して生まれ変わらなければならないということではなく、堕落と関係ない父母の血肉を通して生まれ変わらなければならないということです。そのようにしなければ、神様に戻っていくことができません。罪の根本の根はアダムとエバから始まったので、これを踏み越えて、原罪と関係がない立場で生まれたという資格を備えなければ、神様のそばに戻ることができません。
4 皆さんが世の中に生まれるとき、すべて怨讐の血統をもって生まれてきました。神様のみ前に逆賊の立て札をもった、サタンの血統をもって生まれてきました。昔、韓国では、怨讐の家は七族まで滅ぼすと言いました。皆さんは、怨讐の血統をもって生まれたので、四次、五次にわたって肉身がはげたかの餌食になったとしても、何も言えないでしょう。幸い、そのようにはならなかったので、有り難く思わなければなりません。私たちは、怨讐の血を受けて生まれたので、この血を抜き取ってなくさなければなりません。ですから、宗教は「断食をしなさい、温柔、謙遜でありなさい」と言うなど、自分の肉身を打つ役事をしてきたのです。
5 人間は本来、神様の子女なので、高くて広い天地のように、高くて広い基準をもたなければならないのが人間の本性です。それにもかかわらず、堕落したので、神様は、人間にそのような基準を賦与することができなかったのです。
世界を制覇したいと思う欲望は人間の本能です。本能の欲求なのです。人間の先祖が堕落して、強盗の立場、裏切り者の立場、逆賊の立場で生まれた私たちですが、人間創造時の、天倫に向かって作用する本心は消えなかったので、人間は、宇宙で一番高いところに行きたいと思い、大きくなりたいと思うのです。
しかし、宗教では、「私」の体にあるサタンの情欲を捨て、血気を捨てなさいと言います。断食をして、サタンの血統をすべて切ってしまいなさいというのです。霊界に行く時、皆さんが一週間以上天のための断食をしたことがなければ、誰であっても、あの国に行って入籍ができなくなります。
6 イエス様は、人間を神様の血統に復帰するために来られるので、復帰するための基盤を築いてこなければなりません。そうしてから、復帰していくのです。私たちがこの世の中に生まれてみると、既にサタン世界の人間になってしまっていました。したがって、神様の息子として復帰するためには、生まれ変わらなければなりません。母のおなかの中を訪ねて入っていったのち、再び出てこなければなりません。重生しなければならないのです。重生とは、生まれ変わるということです。
7 人は、男性にある生命の種が女性を経て一つの生命として生まれます。この転換の道は、どこでその交差点をつくらなければなりませんか。それは女性のおなかの中です。それで、女性のおなかに向かって戻っていく運動をしてきました。言い換えれば、歴史は、ずっと原点に戻る条件を立ててきたのです。そして、女性のおなかの中に生命は宿るとしても、その生命は、いい加減に宿ることができません。そこには、懐妊しなければならない女性がいると同時に、懐妊させる男性がいなければなりません。結局、一つの家庭を中心として、神様はそのようなことをしてきました。完全復帰ということを考えるとき、男性の骨肉の中に潜在している赤ん坊の種から出発するのです。ですから、その男性の血肉の中にある赤ん坊の種まで、神様の愛を中心として一体になったという条件を立てておかなければなりません。それを立てなければ、完全な血統転換の基台をつくったという条件が満たされません。
8 完全復帰の道を行こうとすれば、汚された血統を清めなければなりません。皆さんの体は、サタンの血を受けました。原理を聞いて観念的に知っているのであって、この体が神様の怨讐であり、人類の怨讐であり、歴史の怨讐であり、天理の逆賊となる、その逆賊の血が入ってきて渦巻いていることを本当に感じているかというのです。この目は、サタンの目です。口も、手も、足も、体すべてがサタンのものです。それで、キリスト教では、罪を拭いなさいというのです。清めなさいというのです。
9 もし体が、血統を通してサタンの家になっていなければ、神様の復帰歴史は、あっという間に成し遂げられます。本来は、神様が父にならなければなりません。ところが、人間はサタンの息子として生まれたので、神様を父として感じることは、極めて難しいのです。サタンを北極とすれば、神様は南極のようなものです。ですから、世の中で最も難しいことは、今日まで受け継いだこの血統を否定し、自分の父ではなかった神様を新たに自分の父以上に知る道を探すことです。そのようにしなければ、天国に戻っていくことはできないというのが救援摂理の道なので、歴史上で、救援の道理が最も難しかったのです。全知全能であられる神様が六千年かけても、いまだに完成できていない原因はここにあります。
重生は血統転換によって
10 アダムとエバが愛の伝統を破壊することによって、血統を誤って汚しました。偽りの父母が、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を結んで、このようにしたので、真の父母が来なければなりません。真の父母が、天の父母を知って、天国の秘密とサタン世界の秘密を知り、これらを祝福して、神様の王権を解放してあげなければなりません。それでは、神様とサタンの争いを停止させる権限は、誰にありますか。来られる真の父母以外には、その争いをやめさせる者がいません。偽りの父母が植えておいたからです。
11 統一教会の提示する内容は家庭です。これは、父母を中心とする新しい家庭です。新しい家庭制度で新しく出発する息子、娘たちは、過去を清算してこなければなりません。皆さん各自の血統的内容が違い、背後が違っても、父母に似るためには接ぎ木する役事がなければならないのです。接ぎ木しようとすれば、皆さん自体に残された蕩減路程をすべて清算しなければなりません。それは父母から始まったので、父母を通して清算されなければなりません。ですから、真の父母に接ぎ木しなければなりません。アダムが真の父母になることができず、偽りの父母になったので、神様は今まで、真の父母を探してこられたのです。再臨時代の新郎新婦や小羊の婚宴というものも、すべて父母を探すためなのです。
12 成約時代は結婚する時代です。アダムとエバが堕落することによって、神様は結婚式をしてあげることができませんでした。したがって、再臨主、真の父母が来て、神様の代わりに結婚させてあげなければなりません。天国は夫婦で入っていくようになっているのであって、一人で入っていくことはできません。イエス様も、今まで楽園に行っていました。すべての聖人も、真の父母がすべて結婚させてあげなければなりません。皆さんも、真の父母によって野生のオリーブの木を切ってしまい、偽りの血統を切ってしまって、そこに真の父母様の血統を接ぎ木してこそ、生きるのです。今からは、宗教もすべてなくなります。
神様を絶対的に愛さなければならない
13 神様は、人間を創造本然の人間にして、神様の愛を人間と結合させたいと思われた方だと考えながら、自分の一身は忘れても構わないという神様に対する愛情心に接しなければ、生死の境地を乗り越えることはできません。ですから、完全な宗教は、肯定から出発するのではなく、否定から出発するのです。完全否定です。生命までも否定です。そのような立場を通過しなければ、堂々とサタンの前に立つことができません。それが、今まで各個人が信仰生活をしてきた立場です。
14 神様を信じることができずに堕落したので、救世主を信じて、ついていかなければなりません。ついていって、愛の家庭を用意しなければなりません。そして、新郎であるイエス様と実体的に一体化し、心情が一体化して復帰されなければなりません。そうして、神様と真の父母と真の子女が対面する場、すなわち神様が初めに願われたその場が、この天地間に展開すれば、そこから新しい天地が開かれるのです。今、この世の中のすべてのものは、神様のもとを離れてきたものです。したがって、私たちは、いずれにせよ蕩減の過程を経なければなりません。
今日、このようなところで、統一教会の教会員たちが重大な立場にいます。私たちが上手くやってこそ、民族を生かし、世界を生かすことができるのです。今まで、私たちが犠牲になってきたのは、民族的な祭壇を準備するためでした。今は、世界的な祭物になるために、再び進まなければなりません。二つの使命を果たさなければならないのです。
15 イエス様が、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七、三八)と言われたのは、どういうことでしょうか。これは、絶対的な立場で、公的だということです。それは、「私」というものがないことを意味します。全体を代表して、神様を主体にするのです。
この堕落した世の中はサタン圏内なので、全体を身代わりする一つの中心存在として、神様を絶対的な主体として侍らなければならないのです。「私」という観念をもってはいけません。「私」という観念をもてば、必ずサタン圏が所有する条件が残るのです。「私」を絶対否定する立場で、絶対主体観念を中心とする外的物質と体と心が一つにならなければなりません。このようにして、祭物を捧げなければなりません。
16 イエス様はニコデモに対して、「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ三・三)と言われました。今まで生きてきた「私」は、いずれにせよ歴史的に否定されなければなりません。どんなに「良くやった」と弁解し、自ら立てた何かがあるとしても、私自体は否定されなければなりません。堕落人間であるがゆえに、そのような圏内を抜け出すことはできないのです。否定されるべき生涯であり、否定されるべき生活であり、否定されるべき屍の人生であったというのです。