天聖教: 第11話

第一篇: 神様

第二章: 心情と真の愛の神様

第二節: 真の愛の神様 4-18

4 真の愛は、必ず相対的基盤を通して成り立つようになります。夫婦間の真の愛は、自分たち夫婦だけのためのものではありません。神様の創造理想を中心とした真の愛にならなければなりません。絶対的な真の愛の主人は神様です。神様の真の愛で自分の相対と一つになろうとするとき、絶対的な神様の真の愛が臨在するのです。真の夫婦は、神様の真の愛を抱いて一つになり、希望をもって、未来の世界に向かって進まなければなりません。子女の妊娠も、一族の繁栄も、この基台の上でなされます。夫婦の真の愛が生活環境圏を超えて、神様の真の愛の理想と一致する家庭をつくるのが究極的な願いです。

5 神様が存在しないとすれば、人間はこの世で生きる楽しみがありません。目は何を見なければならないのでしょうか。良いものを見なければなりません。映画を見るのも、悪い映画を見ようとするのではなく、良い映画を見ようとします。そして、感動を受けるために良い映画を見にいくのです。耳も良いものを聞こうとします。悪いものは聞こうとしません。良い声の中でも、最高に良い声を聞こうというのです。ですから、人間は、見るのも最高に良いものを見て、聞くのも最高に良いものを聞き、匂いを嗅ぐのも最高に良い匂いを嗅ぎ、触れるのも最高に良いものに触れたいと思います。それでは、最高に良いものとは何でしょうか。愛です。それでは、愛の主人、愛の大王とは誰でしょうか。天地を創造した神様です。

6 全知全能であられる神様、存在されない所がない神様、知恵の王であられる神様は、人間世界で一番悪いものでも、一番良いものにできる能力をもった神様です。ですから、そのようなものを探してみると、愛の支配者の立場が、神様が御覧になるときに、一番良く見える立場でした。愛の支配者の立場が神様に一番似合う立場だというのです。愛の支配者になるためにはどのようにしなければならないのでしょうか。支配者とは、自分の思いどおりにする人を言います。神様は愛の支配者です。「私のために生きよ」と考える支配者ではなく、ために生きようとする支配者です。

ですから、自分のために生きる人は、神様とは関係ありません。神様の愛と関係を結ぶためには、自分のために生きようとしてはいけません。自分のために生きようとする人は、神様とは関係ありません。ですから、愛の支配者になるためには、自分のために生きるのではなく、ために生きようとしなければなりません。ために生きようとする愛の支配者、絶対的な主人であるお方が神様です。ですから、ために生きようとする愛を本質として、絶対的な唯我独尊の位置にいらっしゃるお方が神様なのです。

7 神様は、愛の支配者です。永遠にために生きようという、永遠無窮にために生きようとする愛の支配者が神様です。そのような神様なので、そのお方と関係を結び、そのお方と愛の圏内で統治されるためには、「私」も、ために生きる愛をもって主張しなければなりません。そうでなければ、神様は相手にもしないというのです。

8 絶対的な神様も、愛を中心としては絶対服従しようとされるのです。これは、キリスト教の神学にはない言葉です。力の世界を中心として見てみるとき、キリスト教文化圏は多くの血を流しました。力さえ保持すればみなできると考えるのです。「神様は思いどおりにすることができる」と考えました。それが誤っていたのです。絶対的な力を主張する神様も、愛が定着できる所、愛が立つことができる所を求められるのです。神様も、絶対的に愛を好むのです。どのくらい好むのでしょうか。絶対能力を発揮することよりも好みます。全知全能で遍在することよりも好みます。それはどういうことでしょうか。神様は、すべてのものを捨てたとしても、愛を中心として絶対服従しようとするというのです。そうしてこそ筋が通ります。神様は人類の父であると言いますが、父自身が愛を中心として生きずに、息子、娘に「子女たちよ、お前たちは愛に絶対服従して生きなさい」と言うことができるでしょうか。根源がなければなりません。ですから、神様御自身も愛に絶対服従して生きるとき、「私がこのように生きるので、お前たちもこのように生きなければならない」と教育できるのです。

9 真なるものとは何かというと、絶対的な愛です。絶対的な神様も、真の愛には絶対服従しなければなりません。男性と女性が愛の道を探し求め、「その男性、その女性でなければならない」と思うときには、自分の生命を超えて動こうとします。その愛する相対のためには自分の生命を捧げようとし、自分のすべてのものを、過去、現在、未来をそっくり犠牲にしても、その愛と一つになろうとします。これは、堕落した愛でも、そうだという話です。本然の神様が願った完成した愛であれば、どれほど強いでしょうか。生命が問題ではありません。

ですから、神様御自身の生命までも否定させ得るものが真の愛の力です。もし、神様が愛も思いのままにすることができるとすれば、平和の世界にはなりません。独裁的な単一世界に、はなるかもしれませんが、和合して相対者の立場で授け受けすることができ、お互いにために生きることのできる愛がなくなれば、平和の世界、一つの世界はできないのです。

真の愛ゆえに生まれた人間

10 神様は、なぜ万物を造ったのでしょうか。御自身が愛する対象者をもつためです。御自身が愛する対象圏を造るためです。その対象が地上で生きたのちに、自分の本然の世界に戻ってきて、永遠なる神様の愛の本国に来て生きるようにするためです。男性は女性のために生まれ、女性は男性のために生まれました。それは愛ゆえです。男性と女性が、なぜ愛をもとうとするのですか。神様の愛のためです。それが真理です。

11 神様の主流の属性は、絶対、唯一、不変、永遠です。絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠愛です。この愛を求める道を行くためには、自分を中心として考えては、そこで終わるのです。しかし、男性は女性に対し、女性は男性に対し、絶対的に、唯一的に、不変的に、永遠的にために生きる立場において、神様の属性の主流である絶対愛、唯一愛、不変愛、永遠愛が現れるのです。私たちは、永遠の神様に似て、永遠の生涯を中心として生まれたので、永遠の真の愛を中心として生きるのです。その真の愛は、二つではなく一つです。唯一的愛です。また、いくら唯一的で絶対的でも、変化すれば大変なことになります。ですから、不変的愛であり、永遠の愛です。

12 神様の主流属性である絶対的な愛の個人の位置、また絶対愛の家庭の位置、絶対愛の氏族、民族、国家、世界、天宙の位置は分かれているのではなく、すべて一つになって大きくなっていったというのです。頂上に上っていき、個人時代、家庭時代、氏族時代、民族時代、国家時代、世界時代として、一つの中心と連結して拡大した世界にならなければなりません。無形の神様の属性を中心として、男性格主体の絶対主人の立場を中心として、縦的な立場に立ちながら、これが正常に大きくなっていったとすれば、堕落のない世界なのです。

13 アダムとエバは、絶対創造主の体です。体として造ったのです。無形の実体では、実体の刺激の世界と向き合うことができません。それで、神様は、アダムの心に入ってアダムが成熟することを願い、エバの心に入ってエバが成熟することを願いました。しかし、アダムとエバは、神様が成熟することを願った、その時に堕落しました。堕落していなければ、私たちは、神様の直系の血統を受けた息子、娘に、間違いなくなっていたでしょう。神様が根になっているというのです。神様が愛の根です。しかし、堕落したために、神様の愛を土台にした根は生まれませんでした。

14 神様は、人間の先祖アダムとエバをお造りになり、どのような基準に立てたいと思われたのでしょうか。神様が本然の人間を造られた目的は、決して人間を悲しみの中に、苦痛の中に、不幸の中に置こうと思われたのではないのです。神様の働く所として、神様の心の場として、神様の愛の対象としてお造りになりました。アダムとエバは、神様の働く場所であり、心の家であり、愛の対象でした。善であられる神様が造られた創造の世界もまた善なので、アダムとエバが活動するその生活環境も善でなければなりませんでした。それが創造当時、神様の目的であり理念でした。

15 神様が愛の対象を探すために創造した思想とは何でしょうか。投入して忘れることです。これが宇宙発生の基本思想です。ところが、堕落することによって反対になりました。神様は相手のために自分を犠牲にして完全投入し、より良い第二の相手を造ろうとしますが、人間は堕落して、自分を中心として相手を犠牲にしようとします。ですから、堕落した世界では個人主義が世界版図にまで広がって、地上地獄として破壊現象を起こすのです。それが現世です。

愛で完成される創造理想

16 神様は、無形の神様です。「正」から分かれていくのですが、そのまま無限に分かれれば見えなくなるので、再び「合」によって現れるのです。そこから大きくなって上がっていきます。大きくなって上がるようになれば、神様は最高の位置に存在するようになりますが、神様はどのように完成するのでしょうか。実際、神様がどのように完成するのかという話は初めて開く話ですが、内容のある話です。神様も完成しなければなりません。全知なので知識の完成ではありません。創造理想はお金の完成ではありません。権力の完成ではありません。愛の完成です。

17 神様御自身は絶対者ですが、絶対に必要とするものは愛です。神様も愛のために存在します。愛のために生きるというのです。私たち人間は、神様の二性性相の一つの性、すなわち内性に似て生まれました。アダムは神様の二性性相の半分、一部分であり、エバは神様の二性性相の半分、一部分です。ですから、これ自体だけでは完成があり得ません。言い換えれば、男性自身の完成、女性自身の完成があり得ないというのです。それで、男性は女性に出会わなければならず、女性は男性に出会わなければなりません。

18 人間完成の道はどこにあるのでしょうか。男性なら男性自体で完成する道はなく、女性なら女性自体で完成する道はありません。それは、すべて半製品だからです。ですから、男性と女性は、完全に一つになった愛を中心としてのみ完成します。アダムとエバが完成するには神様が絶対に必要ですが、神様は縦的な立場で必要なのです。アダムとエバが完成しようとすれば、縦横の愛の関係をもたなければなりません。縦横の愛の関係をもたなければ回転運動、球形運動が不可能です。ですから、横的な立場でアダムに絶対に必要なのはエバです。同じように、エバにも横的に絶対に必要なのはアダムです。

Luke Higuchi