天聖経: 第320話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第十篇 平和思想

第四章 世界平和のための構想

第二節 共産主義の問題点と終焉 5-15

5 民主主義は民主主義なりに、共庭主義は共庭主義なりに、自分たちを中心として平和世界に到達しようとします。共産主義は、今から完全に地上から消えていく時代に入っていきます。これは、摂理的に見ても、また歴史的に見ても、そのようになるしかありません。共産主義がなくなれば、民主主義はどうなるのでしょうか。民主主義世界においても、「共産主義世界がなくなったので、今からは民主主義の時代が来る」と考えます。自分たちが主導権をもち、世界を支配し、民主主義が希望だと考えていますが、共産主義の滅亡とともに、民主主義自体も、そのあとを追いかけ、急激に落ちていくのです。

 

6 今までの共存は、相手をお互いに否定しようとする闘争が継続する状態での共存です。互いが平和を維持しながら、互いに良い状態での共存ではありません。このような観点から、唯心史観と唯物史観の闘争は、根本から解決しなければなりません。これを解決しようとすれば、善をどの位置に立てるのでしょうか。まず原則的な基準をしっかりと立てたのちに、その基準を中心として、あとのものを処理しなければなりません。

 

7 先生は、カイン圏である共産世界とアベル圏である民主世界を統合した基盤の上に立たなければなりません。ですから、これらが一つにならなければならないのです。心と体が拡大した世界が民主世界と共産世界です。一つは「心主義」の世界であり、一つは「体主義」の世界です。これを合わせた基盤の上に立たなければ、世界平和の扉を開けることはできません。これが原則です。これが個人の体から、家庭、社会、国家、世界にまですべて連結されるのです。

 

8 共産主義の論理を見ると、「世界は闘争過程を経て私たちが指向する一つの理想世界に到達するのだ。それは絶対的だ。党の命令はどのような命令よりも絶対視しなければならない」と言うのです。それが善の側に立ち、自由と幸福と平和をもたらすことができる側に立ってそのように言うのであれば分かりませんが、共産主義の本質的内容を見れば、これは、とても想像できない内容をもっています。自分たちの目的を達成するためには、手段や方法を選ばないのです。自分の父母も、自分の国も、自分の同志も、その行く道に障害になれば切るのです。そうして、七十年の歴史を経た共産主義は、世界の問題として登場しているのです。

 

9 共産主義が追求するものとは何でしょうか。闘争の結果によってもたらされる平和の世界です。その平和の世界は、今日、民主世界でいう平和とは違います。平和に背くあらゆるものは粛清するのです。共産主義思想に背くあらゆるものは粛清します。反動分子だというのです。ですから、反動分子をすべて切ってしまい、反動分子がいないようにした、その世界の平和を言うのです。民主世界とは異なるのです。今日、ソ連が平和を主張しますが、その平和は、マルクス・レーニン主義を中心として、そこに背くすべての反動分子たちを粛清してしまい、マルクス主義一辺倒の立場で反対する群れがいない境地を言うのです。

 

10 共産主義とは何でしょうか。神中心の主体も認めない、対象も認めない、方向性もない、目的性もないというのです。この中でどれか一つでも認定すれば、すべて崩れ去ってしまうのです。ここでは、主体と対象の関係を闘争関係として見ています。闘うことで一つになるというのです。そのような道理がどこにありますか。「女性と男性が闘って一つになる。心と体が闘って一つになる」というのです。

彼らはまた、主体と対象においても、「物質が先であって、心が先ではない。心は物質から派生した」と言います。逆さまにひっくり返してしまいました。「発展は闘争だ」と言いながら、闘争の方向を取っています。平和の方向ではありません。「統一は血を見なければならない。血を見て統一される」と言うのです。これは、歴史発展の原則にも、宇宙の存在の原則にも違反するのです。

 

11 唯物弁証法は、すべてのものは闘争しながら一つになるというものです。もし資本主義世界がなくなり、資本主義体制が共産主義体制になるときには、闘争目標をどこに置くのでしょうか。その時に、平和の世界がただそのまま来るのかというのです。その時、ただじっとしていて理想的な共産世界が来るとは絶対に考えることはできません。もし、これ自体が飽和状態になって理想実現が不可能になるときは、必ずそれ自体の分裂が激しくなります。

もしそのような世界になるとすれば、霊界がその世界を黙って放っておくのかというのです。神様がいるとすれば、どのようにされるでしょうか。その世界になったとすれば、宗教がなくなります。宗教がない世界になるのです。そのようになった時、今まで宗教と向き合ってきた神様が、何もせずにじっとしているだろうかというのです。共産主義は、資本主義に対して閾争目標を立てると同時に、神様に対して闘争目標を立てています。宗教を闘争の目標に立てるのです。

 

12 共産主義が語る平和は、私たちと概念が違います。語彙的戦術を活用しているのです。「平和」といえば、私たち自由世界、民主世界の人々は、互いに意見が異なり、主張が異なり、目的方向が異なる立場にあっても、互いに和合して一つになることができる基準を探していきます。それが平和です。そのように一つになったものが平和だとみなすのですが、共産世界は違います。プロレタリア独裁政権に反対するすべての反動分子は、完全に除去してしまい、そこに相対的なものが現れない基準に立った平和なのです。

 

13 既にアメリカの行政府や軍隊や教会に、共産主義者が投入されています。ですから、無神論的キリスト教化運動を本格的に宣伝してきています。物質思想を中心とした共産主義思想の基盤のもとで、組織的な編成をしてきていますが、これを中心としては何も期待できません。行政府に期待することはできず、軍隊に期待することはできず、教会に期待することはできず、すべて期待することはできません。学者もそうであり、大学生も同じです。

ですから、仕方なく共産主義に対処できる思想的な基盤のもとで、新しい宗教運動を提示して、世界問題化させて希望を存続させる道しかないという結論が出てきます。ところが、共産党は、道理にかなった理想世界を願いません。暴力的な理想世界を願うというのです。目的のためには手段、方法を選びません。そのような世界化された基盤と向き合わなければならないのが先生の立場であり、統一教会の立場であることを考えてみなければなりません。ですから、思想的に向きを変えておかなければならず、生活的な感情を変えておかなければならず、行動の方向を変えておかなければなりません。

 

14 共産党や悪というものは、力が強いときはいつでも攻撃してきます。平和がありません。そのような意味から、先生が統一教会の若い人たちの心に火をつけ、未来において闘争という内心的な決意を誓わせるために、勝共運動をしたのです。力は力で制圧することができる基準になっていなくてはならないのです。だからといって、攻撃するということではありません。弱くなるときは、いつも侵攻しかねないのがサタンの本質です。平和だ何だと言うのは、彼らの戦略戦術です。急変する情勢が押し寄せてくるこの時に、韓国の国民たちがすべきこととは何でしょうか。生死の決断を下すことができる思想的な武装をすべき時が来たというのです。

 

15 唯物論を中心とした共産主義がいかにして出てきたのでしょうか。それは、歴史的に物質しか分からないこの体の闘争的内縁を拡大させ、世界的に結実させておいたものです。それが唯物論的世界観です。また、今日の民主世界は、闘う心と体において、心の側として実を結び、世界的に結実したものとして現れたのです。これが今、世界問題として対峙しています。いつも体が心を打って引っ張り回すように、終わりの日には、物質主義が心の主義を侵犯して死亡のどん底に追い詰めかねない危険千万な水位を越えるようになります。

このように見る時、二十一世紀に世界の統一も必要であり、一つの世界や平和の世界も必要ですが、「私」の心の中の奥深くに統一と平和をもたらすただ一つの方案を、いかにして探し出すのでしょうか。これが問題です。これが起源になっているので、ここから解決しなければ、すべてのものが水泡に帰すのです。

 

Luke Higuchi