天聖経: 第297話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十篇 平和思想
第一章 平和とは何か
第一節 平和の概念 13-24
13 「平等」は、一つのものを中心として語る言葉ではありません。左右という観念で、二つが一つの水平を形成してこそ平等になります。「平和」という言葉自体が、必ず相対的関係をおいて語る言葉です。東西を中心として平和を語るのです。東側だけを中心とした平和は一方的な平和であって、全体の平和を身代わりすることはできません。「平」の字が入った「平準」「平衡」という言葉は、すべて相対的概念です。二つ以上のものを中心として、連結されるところで成立する言葉です。
平和の境地も、男性と女性が一つになるところで成り立ちます。男性と女性が一つになるというのは、背丈が同じだからではありません。背丈を中心として見れば、男性は大きくて女性は小さいのです。力を見ても、男性は強くて女性は弱いのです。外的な面では、水平になることはできません。それでは、何を中心として相対的水平圏を成し遂げるのでしょうか。それは、何かの力でもなく、知識でもありません。知識は、いくら学識が広いといっても、高低の違いがあります。平等の立場を成し遂げ得るただ一つのものがあるとすれば、それは愛しかないのです。
14 「平」という基準は、どこで求めることができるのでしょうか。愛を中心とした基準でのみ可能です。愛は、男性でも女性でも、私たちのあらゆる細胞が要求する、絶対的な理想の頂点です。その理想の頂点を中心として一つになる基準、全体を代表した基準として立つので、「平均」や平等という言葉は、力や形を中心としたものではありません。愛を中心として語る言葉なのです。
15 私たちは、どこに向かっているのでしょうか。理想世界に向かっているのです。また、平和世界、統一世界に向かっています。理想や統一や平和というものは、一つになった世界なのです。その一つの世界の中心とは何でしょうか。このすべてのものは、愛が中心となっていなければならないのです。共産世界が平和の世界ですか。民主世界が平和の世界ですか。いくら組織が統一されたとしても、愛がなければ、それは統一世界になりません。愛がなければならないのです。
16 千年、万年、不変な本質があるとすれば、その本質を中心として平和が成り立ってこそ永遠の平和が広がるのであり、幸福も、そのような本質を中心として広がってこそ永遠の幸福が成就するのです。そのようなことが真の愛から始まります。真の愛を中心として主張する自由は、永遠の自由であり、その真の愛を中心として始まる平和は、永遠の平和であり、そのような幸福は、永遠の幸福であり、それを中心として全体が統一されれば、それが永遠の統一になるという結論が出てきます。そうなれば、永遠の平和が永遠の社会、世界まで連結されるのです。
平和と幸福
17 神様の愛を受ける人になるとすれば、どうなるでしょうか。心と体はうれしいでしょうか、うれしくないでしょうか。そのような人は、不幸ではありません。神様が永遠であられるように、「私」も永遠に生きることができます。神様は、永遠の生命の主体であり、すべてのものを備えた方であり、私はその備えた方の愛の対象である以上、その方が悲しまない限り、私も悲しむことができず、その方が喜ぶ限り、私も永遠に喜ぶことができます。ですから、人間が完成するというのは簡単です。幸福であることです。平和で幸福であることなのです。それ以上は必要ありません。それは、すべてのものがいっぱいに満たされている立場をいいます。もちろん、その中には自由があるのです。また、願うものがすべて実現するのです。
18 不幸な人とは、どのような人でしょうか。与えようとしても与えることができず、受けようとしても受けることができない人が不幸な人です。一人では、幸福はあり得ません。一人では、平和はあり得ません。平和というものは、相対的関係において展開するのです。「愛」や「幸福」や「平和」という言葉は、絶対に一人でいるときに成立するものではありません。相対的観念において成立する言葉なので、その相対が完全な相対でなければ、完全な幸福はあり得ず、完全な平和と、完全な愛はあり得ません。
19 人間は、様々な努力をしてみましたが、人間が真に要求する真の人や、真の理想や、真の幸襯や、真の平和といったものを願ったにもかかわらず、そのような要件を成就できる希望さえ喪失してしまった悲惨な状況に置かれています。この変わる人間像を超えて、永遠でもあり、不変でもあり、絶対的でもあるそのような方がいらっしゃるとすれば、その方こそ、私たちが知っている神様です。
神様は、私たち人類が願う真の希望の中心であり、真の幸福の中心であり、真の平和の中心であり、真の愛の中心であり、真の理想の中心です。神様は、愛の王であり、理想と幸福と平和の王です。神様と私たち人間が同じ願いの基準、同じ希望の位置、苦楽を共にできる位置に行くためには、神様を中心として、真の愛がどこから始まり、真の理想と真の幸福と真の平和がどこから始まるのかという根源を、はっきりと知らなければなりません。
20 今日、世界人類は、自分たちも気づかずに、平和の世界、幸福の世界を追求しています。また、自由を追求しています。これはすなわち、根本的な自由の基盤の上に立つことができず、平和と幸福の根本となる位置に立てなかったからだ、ということを証明するものです。神様は、絶対者であられ、全能であられる方なので、その方によって造られたすべての万物は言うまでもなく、その神様が自由であられるならば、私たち人間も自由でなければならず、神様が平和な位置にいれば、私たちもその方と同じ位置に立たなければならないのです。
21 自分自身というものは卑しいものだと思っていましたが、私たち個々人によらなければ神様の愛を完成させることができないという事実、「私」自体でなければ、神様の理想を成就させることはできないという事実、神様の幸福と神様の平和を完成させるには、人間でなければならないという明確な事実を、今まで知りませんでした。不足な私ですが、神様の愛を完結させ、理想を完結させ、神様の幸福と平和を完結させることができる高次元的な価値の存在なのです。
22 相手のために生きながら暮らしていこうという原則さえ掲げていけば、家庭では平和の家庭、自由の家庭、幸福な家庭、愛の家庭、社会でも平和の社会、自由の社会、幸福な社会が形成されるでしょう。国家と世界でも同じです。いかなるところでも、この原則を中心としていけば、幸福と自由と平和と愛が宿らざるを得ないという結論は当然なのです。
23 人のために生きようとする男性と女性が夫婦になったとすれば、そのような夫婦こそ、理想的な夫婦なのです。そのような夫婦こそ、真の平和の基準を求めることができます。そのような夫婦が、本当に幸福な夫婦だというのです。そのような夫婦こそ、永遠不変の真の愛の主体者となることができるのです。
それでは、本当に理想的な父母とは、どのような父母でしょうか。自らのために存在し、自らのために生涯を送ろうとするのではなく、子女のために生まれ、その子女たちのために存在してきたと考える父母、子女たちのために生命を捧げて生涯を終えようという父母がいるとすれば、そのような父母こそ、真の父母です。このような父母こそ、真の平和、真の幸福、真の理想の父母です。
子女は、自分が生まれたのも父母のために生まれたのであり、生きるのも父母のために生きるのであり、死ぬのも父母のために死ぬとすれば、その子女は孝子です。真の愛を受けることができる、真の幸福と真の平和と真の理想の子女にならざるを得ないのです。
24 平和の起源、幸福の起源はどこに立てるのでしょうか。今、自分自身を中心として、「私は、自分のために生まれたのではなく、相対のために生まれた」ということを発見すれば、宇宙のすべての難問題は解決されるでしょう。堕落の原因は、アダムとエバが自分の自覚と自己主張をしたところにあります。神様のために生き、神様を主張しなければならないのに、反対になったというのです。ここにおいて、皆さんに一つの公式を提示することができます。ために生きるところでのみ、真の理想と幸福と永遠の世界が存続するというのです。