216.韓鶴子総裁御言選集2 理想家庭と平和世界のモデル
第2巻 第16回
第2部 理想家庭と平和世界モデル
3.真の家庭と私
'このみ言は、1995年5月18日に中南米17ヵ国巡回講演で文鮮明総裁が語られたもので、以後、韓鶴子総裁が9月14日から10月26日まで開催された日本巡回講演と韓国大学巡回講演で宣布なさった。
きょう、お話ししようと思うのは、「真の家庭と私」という内容です。世界で問題となっているのは家庭ですが、真の家庭とはどのような家庭かということを中心として、お話ししたいと思います。
真の家庭とはどのような家庭か
「今、私たちが生きている世界は、善の世界か、悪の世界か」と尋ねてみれば、誰もが「悪の世界である」と答えるでしよう。なぜ、悪の世界なのでしょうか。全世界の歴史を見ても、どの国の歴史を見ても、戦争の歴史が続いてきたという事実を、私たちは知っています。そのように世界が悪であるとすれば、すべての国が悪であるという話であり、すべての人、私たち自身も悪であると言わざるを得ないのです。
私たち自身をよく見れば、私たちの体と心も闘っているという事実を否定できません。そうだとすれば、この闘いの起源はいったいどこにあるのかということが問題にならざるを得ないのです。「私」自体内に紛争があって平和の基地をもてないときは、いくら家庭が平和で、国と世界が平和だとしても、幸福になり得ないというのです。皆様が御存じのように、第一次、第二次、第三次世界大戦も終結しましたが、私たちの体と心を中心としたこの闘いは、未来まで続き得る闘いであることを、私たちはまるで知らずにいたのです。このような問題を中心として考えるとき、神様がいらっしゃるのであれば、私たちの体と心の闘いが、なぜこのように歴史性を帯びて続くようになったのかということが大きな問題になります。人間が罪を犯したというとき、罪を犯した人がそれを蕩減しなければなりません。罪を犯したこと自体に神様が責任を負い、干渉することはできないのです。
それでは、体と心が闘う起源地はどこでしょうか。私たちの生命は父母から受け継ぎましたが、また父母をさかのぼっていけば、第1代の私たち人類の先祖の位置までさかのぼるようになります。すなわち、第1代の先祖であるアダムとエバの夫婦の愛に問題があったために、このようになったと見るのです。
生命の起源は父母の愛によって始まります。ですから、私たちの生命が出発する前からこのような闘いが始まったと見るならば、父母が愛し合うその場が問題になったという事実を、私たちは考えざるを得ません。アダムとエバの愛が喜びの愛になれずに、相反する愛の起源となって生命の根が打ち込まれたことによって、私たち人間自体の紛争が始まったと言わざるを得ないのです。
聖書は、アダムとエバが堕落することにより、エデンの園から追い出されたと記しています。追い出された人類の先祖が、子女を繁殖したのは事実です。追い出したアダムとエバについていって、神様が結婚式をしてあげたはずは絶対にありません。誰のもとで結婚式をしたのだろうかと考えるとき、堕落することによってサタンのもとで結婚式をしたということを、私たちは認めざるを得ないのです。
体と心、夫婦、子女統一を願う真の父母
堕落は、サタンによってエバが誘惑され、その誘惑されたエバがアダムを誘惑したところから始まりました。ですから、私たちの先祖であるアダムとエバが愛を中心として夫婦関係を結ぶとき、喜びの関係ではなく、相反する関係で結ばれることにより、その関係に根を置いている私たち人間も、体と心の闘争の起源を連結せざるを得ないという事実は、何よりも理論的なのです。
堕落は淫乱によって始まりました。このような願わない愛の関係によってサタンと一つになり、善の先祖になれず悪の先祖となって、悪の愛と悪の生命と悪の血統の根をもつようになったのです。このようなことが事実であれば、私たち全人類の堕落した子孫が、家庭を越えて、氏族を越えて、国家と世界まで発展した今日、50億の人類はサタンの子孫であり、悪の父母の血統を受け継いだことを否定できないのです。私たちの体の中に、神様が最も嫌うサタンの血が蠢動しているという事実を、誰も考えられませんでした。これが問題です。
それでは、この根をどのように清算するのでしようか。サタンが愛の根をどこに打ち込んだのかというと、体、すなわち肉身に根を下ろしたのです。もし堕落していなければ、体と心が一つになるのは自然の道理です。堕落することによって、天に相対する良心のプラスと、これに反対する体のプラスが衝突しているために、ここから闘争の歴史が始まったという事実を、私たちははっきりと認識しなければなりません。
このため、神様は善悪の分立歴史を展開せざるを得ないのです。神様は公的であられるので、全体のために生きる道を選びながら、愛と平和の目的に向かう反面、サタンは私的立場を取り、全面的に善の側を破壊しようとする立場に立って、憎悪と戦争で永遠に人類が天の側に行けないよう、天と地上世界を滅ぼそうとしています。神様は、サタン側に回った人類を打てないので、人類を取り戻すために天の側が打たれて取り戻し、サタンは打って奪われる作戦を取らざるを得ません。サタンは私的なことを中心として、憎悪と闘争によって天を滅ぼすための破壊を、歴史を通して行ってきており、天は反対に公的な立場で、愛と平和によって再創造してきているのです。
終末になれば、サタンは人類を支配してきた立場を天の側に奪われるようになるので、「神はいない」という無神論を提示して、人本主義と物本主義、そして共産主義の出現を助け、天の側の右翼とサタンの側の左翼の闘争を世界的に展開したのですが、天の側の勝利によって、第二次世界大戦以後、キリスト教文化圏の勝利と平和の世界に転換する大変革時代を迎えるようになるのです。
今の時代は個人主義の王国時代です。真の愛を中心として願う天の家庭を完全に破壊させたフリー・セックス時代と父母否定時代であり、夫婦否定時代と子女否定時代であり、ホモやレズビアンなど、天の側を完全に破壊する地上地獄の時代ですが、これを天国に転換するためにメシヤの再臨があるのです。そのため、メシヤは真の父母として体と心の統一、夫婦統一、子女統一を願うのです。
神様が願う家庭と「私』と世界を知らなければならない
全世界的に今、問題は、私的にも公的にも、物質が先か精神が先か、無神論か有神論か、観念か実在か、進化論か創造論かということです。これをはっきりさせなければなりません。
例を挙げてみましょう。動物世界を見れば、生まれるとき、目が先に生じます。その目は、物質それ自体です。その目が生まれる前に、太陽があることを知っていたでしょうか、知らなかったでしょうか。その目という物質自体は知りませんでしたが、生まれるときは、先に知った立場で、太陽を見ることができるように生まれたのです。知った上で生まれたというのです。
空気があることを、その目自体は知りませんが、既に空気の中にはほこりが飛ぶことを知っていて、目をカバーするまつ毛が準備されていることが分かります。そして、目自体は知りませんが、あらかじめ涙を蒸発させる輻射熱があることを知り、目に涙腺を置いて防備するようにしたのです。本来の物質自体は知りませんでしたが、生じる前にそのような事実を知った上で生まれたというのです。結論として、私たちはこのことから、思惟と存在、精神と物体、観念と実在、有神論と無神論、創造論と進化論について論争する問題を解決できるというのです。ですから、確かに神様によって創造されたということを否定できません。そのため、本然の神様の創造理想世界に帰り、神様が願う家庭と「私」と世界をはっきりと知らなければならないのです。
私たちの体と心を見れば、体は地獄の基地になっており、良心は天の国の基地になっているという、この二つの世界の分岐点をもっている人間であることが分かりませんでした。このような立場に立っている私たち自身を見ると、体が心を引っ張り回しているというのです。歴史を通じて、体が心を自由自在に引っ張ってきたというのです。もし良心が強くなれば、自然と天に帰っていくので、世界は既に天のみ前に立つことができたはずだというのです。
また、この良心よりも、肉身が良心を引っ張り回すというのは、堕落するときにサタンと関係を結んだ偽りの愛の力が、堕落するときの良心の力よりも強かったということです。神様はこのようなことをよく知っているために、堕落した人類を放っておくことができず、この体が良心を引っ張り回す力を弱める作戦を行わざるを得ないのです。このように、歴史的に天が働くその救援的な役割をもたせて立てたのが、宗教だというのです。
宗教の目的
神様は、異なる文化的背景に従って多くの宗教を全世界に立てたのですが、心を引っ張り回す体を弱め、その力を取り除くことが宗教の目的であることを、今まで宗教を信じる信仰者は知らずにいたのです。堕落がなかったならば、宗教は必要ありません。誤ったので、これを修正するために宗教が必要だったというのです。ですから、神様は宗教を通して何をしようというのでしょうか。心を引っ張り回すこの体を追い詰めようというのです。
皆様は、宗教を信じることによって救われ、キリスト教を信じることによって天国に行き、仏教を信じることによって極楽に行くと思っています。しかし、天国は神様の真の愛を中心として一つになった子女が入るようになっています。天国に入れるアダムとエバの家庭は、神様の子女として、血族であり、神様の愛を中心とした家庭とならざるを得ないのです。そのような家庭が入る所が天国であることを、今まで誰も知りませんでした。ですから、良心の力を強化するために、この体を打たなければならないのです。良心を解放させ、良心が体を自由自在に引っ張り、堕落していない本然の神様の愛の懐に帰らなければならないというのです。
それでは、宗教がしなければならないこととは何でしょうか。体が最も嫌がることを提示することです。体が嫌がる「断食をしなさい」、「奉仕をしなさい」、「犠牲になりなさい」ということを言うのです。それだけではなく、最後には「祭物になりなさい!」と言います。祭物は血を流すようになっています。生命を懸けることができなければならないというのです。ですから、聖書で「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ル力11:33)という逆説的な論理を教えているのも、肉身が生きるままに行けば地獄に行くのであり、肉身を抑制して良心の解放圏を形成すれば天国に行くという意味です。私たちの体を完全に屈服させ、良心が絶対的な主体の立場に立つようになれば、私たちの良心は無限の欲望と無限の希望をもつようになっているのです。
今日、歴史時代において数多くの宗教があり、数多くの宗教指導者がいましたが、その宗教指導者と宗教を信じる人々は、体を完全に占領して無の状態に立ち、良心を中心として本然的基準で天と相対できる立場に立った、解放された人間になれませんでした。
私たち人間は、堕落することによって偽りの愛の根を中心として野生のオリーブの木になってしまいました。神様の真の愛を中心として根を打ち込むべき人間が、悪魔の愛を中心として根を打ち込んだために、野生のオリーブの木になったという事実を、どのように清算すべきでしようか。これは現在、生きている私たち人類が解決すべき、重大な宿命的課題として残っているのです。
皆様自身を中心として見るとき、皆様の良心は、皆様のあらゆることについて、知らないことがありません。良心は「私」にとって、父母よりもさらに近い位置に存在することにより、永遠の愛をもって、永遠に神様の懐に抱かれることを願っているのです。世の中の父母は、結婚すれば別れることがありますが、良心は私を中心として、私が生まれる前から私と共に存在し、私を愛しながら、永遠に神様の子女として解放しようとするのです。それが良心の使命なのです。
良心の願いは絶対的中心者を占領すること
良心の世界には、師は必要ありません。ある国の教育を担当する大臣が、「良心を教育しよう」と宣布したという話を聞いたことがありますか。良心が本然の道を行くとすれば、「私」が一生の間、行くべき道をはっきりと知って、間違いなく神様の懐に帰っていけるようにすベて教えてくれ、導いてくれるということです。皆様が良心を中心として見るとき、良心が自分の一生のあらゆることを知っているのと同じように、霊界に行けば、地上で行ったすべての事実がはっきりと分かるようになっているのです。傷のない子女、すなわち永遠なる神様の真の息子、娘になるように働き掛けるのが私の良心の使命であることを、今まで知らなかったのです。
霊界に行かない自信のある人はいますか。いずれにせよ、誰もが行くのです。皆様が霊界に入れば、すぐに名前が分かるようになっていて、皆様の一生だけでなく、数千代の先祖も一瞬にして分かるのです。そこは時空を超越した世界なので、良心に背く内容を残してはならないのです。そのため、良心は師よりも優っているという事実を知らなければなりません。
ここには著名な方々と教授が来ていると思いますが、皆様は良心以上に教えてあげられる内容をもっていません。皆様の良心は、航海する船におけるコンパスと同じ役割をしています。皆様の中には、年を取った方々と若い方々がいらっしゃいますが、結婚するとき、相手が自分よりも劣ることを願う人はいますか。いません。また、「愛する相手が自分より10倍優れていることを願うか、100倍優れていることを願うか」と尋ねるならば、ためらうことなく「100倍!」と答えるのです。可能であれば、千倍、万倍、億万倍、もっと優れていることを願うのです。
ですから、良心は最高の愛を求め、絶対的中心者を占領しようとするのです。
私たちの先祖も、私たちの子孫も同じです。このような質問を神様にしてみても、同じ答えが返ってくるでしょう。
皆様。欲心と欲望はすべてかなえられるという見込みはないでしょう?歴史始まって以来、今まですベての人々が、「良心の願いは達成できない、不可能である」という結論を下しています。しかし、ここに立っている私は「可能である」という結論を下しているのです。
皆様の良心のふろしきはどれほど大きいでしょうか。良心の大きさはどれくらいでしょうか。良心が神様を占領したというとき、それで終わると思いますか。神様よりもっと大きいものがあれば、そのもっと大きいものを占領したいと思うのが良心の願いでしょうか。それとも、そこまでは願わないでしょうか。神様よりもっと大きいものがあれば、そのもっと大きいものを占領したいと思うのが良心の願いなのです。それでは、良心の願いはいったい何をしようというのでしょうか。宇宙で最高のものがあるなら、その最高のものも占領し、それ以上に大きなものがあっても、また占領しようとするのです。良心は、それほど大きなふろしきだというのです。
神様が一番占領したいものは人間の真の愛
それでは、神様の心はどれほど大きいでしょうか。人間の良心のふろしきと神様の心を比較すれば、どちらがより大きいでしょうか。神様の心が人間の良心より大きいとすれば、神様が一番占領したいと思うものは、この上なく大きな人間の真の愛だという結論が出てくるのです。
神様が絶対的な方であるなら、一人でいて寂しいでしょうか、幸福でしょうか。皆様がいくら大統領でも、妻がいなくて一人で暮らすようになれば、かわいそうなのです。愛の対象がいなければかわいそうになるのです。神様も相対が必要でしょうか、必要ではないでしょうか。
いくら神様でも、一人では寂しいのです。人間はお金がなければ寂しく、知識がなければ寂しく、権力がなければ寂しく思うのですが、神様はお金を必要とせず、知識も必要とせず、権力も必要としません。創造主だからです。神様に一番必要なものとは何かが問題です。神様のことを何と言いますか。神様は愛の王であられ、愛の主人であられます。もし愛の王であられ、新郎であられる方が神様であれば、相対者である王妃が必要だというのは絶対的原理です。それでは、「絶対的な神様の愛の相対になる方とはどなたでしょうか」と尋ねれば、どのように答えますか。それは、真の人間であるというのです。
皆様はお金を必要とし、知識を必要とし、権力を必要としますが、妻がいなければ、すべて意味がありません。夫には妻が必要であり、子女が必要であり、妻は夫が必要であり、子女が必要です。そのような愛の対象が暮らす所が家庭です。
私はここで、良心の願いをいっぱいに満たせる愛の主体であられる神様に侍り、その神様の愛の対象である男性と女性が一つになって、その愛の中で息子、娘を生み、幸福で豊かに暮らせる家庭こそ、神様の真の愛を中心とした地上天国の最初の出発基地になるということを主張します。
私たち人間が、愛する相対が自分より何千万倍、無限大の価値ある存在として現れることを願うのと同じように、神様も、御自身の愛する相対が無限の価値のある存在になることを願うのです。そのような人が、真の人間です。皆様、そのような男性と女性が、正にアダムとエバだったという事実を知りませんでした。私たちに高い良心の願いが与えられたのは、神様が主体であれば、人間は対象の立場にある存在だからです。ですから、神様の分身ではなく、神様とは違う、別個の人格者だというのです。そのような対象に、神様より数千万倍価値のある存在になることを願う、良心に基づく欲望を許してくださったのです。それが良心の作用だということを、私たちは知らなければなりません。
神様が創造当時、理想として願った真の愛、偉大な愛を中心として、人間と愛の関係を結び、一つになれる神人愛一体の家庭を築いたならば、今日、私たちは天国とか地獄とか言うこともなく、そのまま天国に入るようになるのです。ここで問題になるのは、神様の真の愛と人間の真の愛が、一つの主体的愛と相対的愛として一つになって一点から出発しなければ、神様の愛と人間の愛が異なる二つの愛として出発するようになり、二つの愛の方向と目的地になるということです。このようになるとき、神様と人間が願う絶対的理想世界を見いだすことはできません。この二つの愛が一点から出発できることを願った神様のみ旨は、堕落によって完全に停止してしまったというのです。
真の愛と真の生命と真の血統を受け継ぐことによって救いが成就する
サタンの愛を中心に偽りの父母が生まれ、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統を受け継いだ子孫なので、すべて地獄に行くのです。天国とは関係がありません。ですから、体の強い力を制御して、心が思いどおりにできる人を中心として、良心を通して神様の愛を占領しなければなりません。ところが、私たち人間はその事実を知らなかったのです。
皆様。恋煩いというものを知っていますか。恋煩いにかかった人は、恋煩いにかかった動機を解決してあげれば、すべてが解決します。堕落した人間ですが、堕落していないアダムの本性が残っているので、それが恋煩いにかかったように神様の愛を慕い、また慕うというのです。良心は、「神様の真の愛を、どのようにして占領するか」と言います。お金があり、知識があり、権力があっても、自分の生命を懸けて愛する人を失ってしまえば、何の役にも立たないのです。
皆様が心を解放して解怨成就させ、良心世界において360度に解放圏を形成すれば、その良心は自然に神様の真の愛と連結されるようになっています。愛のふろしきと良心のふろしきのうち、どちらが大きいかと言えば、愛のふろしきが大きいのです。なぜなら、良心は愛から始まったからです。良心を解放し、神様の真の愛と一つになって暮らしてから入る所、神様を中心とした愛の血族を準備して、彼らを中心に暮らしてから入る所が天国です。その愛を占領できなければ、永遠に天国に入れず、その日のために数千万年、待たなければなりません。
堕落した人間は、神様の真の思想と経綸の明かりが神様の真の愛とともにともされて一体にならない限り、天国とは関係がありません。真の良心と真の愛が一つになって暮らす人は、自動的に天国に入ります。イエス様を信じても、神様の愛と結合できなかった人は、天国に入れないのです。
体と心が闘う人は天国に入れません。サタンの血統を受けて紛争が起きている人は、天国に入れないというのです。このようなことを開拓すべきすべての宗教が自ら争うときには、「終わりの日」に、すべて滅びるのです。争う所には神様がいらっしゃいません。ですから、宗教を信じるというのは、体を打って良心を解放する断片的なものであって、これが救いの門を開く鍵ではないのです。神様の真の愛を中心として、真の愛と真の生命と真の血統を受け継がなければ、救いはあり得ないという事実を知らなければなりません。宗教を信じることによって救われるのではありません。宗教を信じるのは、体を追い込むためです。良心の解放圏を備えるようになれば、良心の願いは神様よりも高まるというのです。
人間は神様に帰らなければならない
皆様。自分がすることを良心が先に知るでしょうか、神様が先に知るでしょうか。良心が先に知るというのです。私たち人間は相対的な存在なので、夫と向き合う妻のように個性も人格も異なっているのです。
もし神様が先に知るとすれば、人間は神様の分身であり、一つの体なのです。一人では、相対的な理想を完成できないというのです。人間は神様の真の愛から出発したので、対象的な人格者として神様に帰るのです。神様に帰らなければなりません。父母が100歳になり、息子も年を取って80歳になれば、父と息子は父子の関係はもちろん、友達にもなるのです。
女性と男性は、力で比較すれば相手にもなりませんが、愛というものが介在すれば、妻と夫が互いに押したり引き寄せたりしながら、一つになるというのです。人間が神様のみ前に対象的な愛の存在になったとすれば、神様が喜ばれるでしょうか、喜ばれないでしょうか。
神様は、神様の理想的な対象を未来の希望として願いながら、愛の対象が完成する前にこの宇宙をお造りになったのですが、愛の対象として完成したのちに、アダムとエバがそれ以上に大きいものを再び創造してほしいと言えば、神様にそれを創造できる能力があるでしょうか、ないでしょうか。私たちの良心の願いが無限であっても、それを創造してくださる神様であるということを知らなければなりません。
このように無限な神様の真の愛を中心として、対象の価値をもつ存在として人間を造ったのですが、これを完全に失った人間になったので、再びこれを回復しなければならないのが人間の生涯であり、人類歴史の目的であるという事実を知らなければなりません。各宗教では、宗教の主人たちが再び来ると言いました。イエス様が再臨すると言い、仏教では弥勒仏が来ると言い、儒教は新しい孔子が来ると言い、イスラームのシーア派ではマフディーが来ると言ったのです。
神様が宗教を立てた目的は何でしょうか。神様が一番愛する息子、娘、神様の骨と肉が一つになる、そのような愛する息子、娘を中心とした愛する家庭、愛する氏族、民族、国家を形成するのが神様のみ旨に違いないということを、はっきりと知らなければなりません。そうだとすれば、メシヤはどのような方かということを知らなければならないのです。永遠なる神様の真の愛を根として初めて地上に訪ねてこられ、すべての宗教が願う理想を完成する方が、再臨のメシヤであることを知らなければなりません。
神様の真の愛によって夫婦が一つにならなければならない
そうして、真の父母となり、失われた真の愛を中心として、真の生命と真の血統を理想家庭として地上に探して立てようというのが救援摂理の目的でした。堕落によって神様は、アダム家庭の真の母と息子、娘をすべて失ってしまいました。神様が触れられる真の息子、娘がいなかったというのです。神様の真の愛を中心として、血統的な関係をもてる神様の家庭がなかったのです。
堕落した父母によって偽りの愛と偽りの生命と偽りの血統の因縁を結ぶことにより、私たちの体と心の闘いが起こりました。アダムとエバが怨讐になりました。アダムの二人の息子の間で殺戮戦が起こったのです。
ですから、神様がこれを復帰するための救援摂理は復帰摂理なので、失われた真の体と心が一つになった息子、娘として、絶対的に一つになった夫婦と息子、娘が、神様の真の愛を中心として完全に一つとなり、神様と永遠に一緒に暮らせる真の家庭を築くのです。そして、新婦格であるキリスト教と連結させて、神様と血縁関係を結ぶことにより、神様の真の愛で統一された家庭、氏族、民族、国家、世界を再び編成しなければならないというのです。これが神様の救援摂理の完成です。
この国の指導者の皆様。皆様の国が神様の祝福を受けることを願うでしよう。そのためには、神様の真の愛を中心として、体と心が一つとなった民にならなければなりません。神様の真の愛を中心として、夫婦が絶対的に一つになれなければならないというのです。神様の真の愛を中心として子女が絶対的に一つになれる家庭の数が多くなるとき、神様がこの国に来て暮らすようになるというのです。そのようになれば、自然にこの国も世界の中心国家にならざるを得ないのです。
人間も、自分の一番愛する人が農村や貧民窟にいるとすれば、その愛する主体は対象が暮らす所に行って、共に暮らしたいと思うのです。どのような所でも、愛する人がいる所に行って暮らしたいというのです。それと同じように、神様も一番愛する息子、娘がいる所であれば、農村や貧民窟も天国になるのです。
統一教会とはいったい何をする所なのでしようか。神様の真の愛を紹介する所であり、真の愛を中心として体と心を一つにしようとする所であり、体と心が一つとなったその夫婦を、絶対的に一つになるべき理想的夫婦にしようとする所です。その息子、娘は絶対的に別れることのない統一された兄弟にしようという、そのような主義をもち、神様の命令によってその使命を遂行するのが、統一教会であることをお伝えします。
国際合同祝福結婚の意義
偽りの愛による偽りの父母から、偽りの愛と偽りの生命と、そして偽りの血統によって始まったすべての汚されたものを完全に清算し、真の神様と真の父母の愛を中心として私たち夫婦が真の父母となり、神人愛が一体となった真の愛の種、真の生命の種、真の血統の種を接ぎ木してあげるための礼式が、国際合同祝福結婚式になるのです。
堕落によって、偽りの愛、偽りの生命、偽りの血統の種を受け、偽りの結婚式をした家庭を反対に復帰するため、新しい結婚式に国際的に多くの家庭を参加させ、天の大きな祝福を伝授してあげようという礼式が祝福結婚です。日本の全国民が大きな祝福を受け、天国家庭に転換されて、地上天国に入籍する国民になることを願ってやみません。こうして、超国家的な血縁関係を結成し、神様を中心とした天宙的大家庭主義を形成することにより、真の父母主義、夫婦主義、兄弟主義を宣布して心情文化世界を成し遂げ、地上から天上世界まで、天国に入っていける解放された地上天国の世界を完成しようというのが、統一教会の目的です。
第二次世界大戦以降、文鮮明総裁は全世界的に50年間、迫害を受けてきました。罪があったからではなく、自分たちを救うために多くの迫害を受けたことが分かる時代になったので、今や反対に、一番立派であると考えるようになりました。文総裁の手によって共産主義が滅びました。ゴルバチョフ大統領と金日成主席を教化させた人が文総裁です。滅びゆくアメリカを救うためには文総裁でなければならないという、希望的な体制をつくっておきました。
韓半島の困難な政治的背景にも、文総裁が関係しているのです。中東もそうです。アメリカの共和党が40年ぶりに勝利したのも、文総裁が背後から影響を及ぼしたためであるという事実を知らなければなりません。アメリカの共和党が民主党に勝ったということに関して、背後で文総裁が関与していたという事実を皆様は知らなかったかもしれませんが、このような事実を見るとき、日本が文総裁をアメリカよりも先駆けて絶対的に占領するようになれば、世界の一等国家になるでしょう。
文総裁は今まで、語ったことはすべて成し遂げてきました。全世界が文総裁をたたき潰し、葬り去ろうとありとあらゆることをしましたが、死なずに堂々と世界の頂上に立ち、きょうもこうして叫ぶことのできる立場に立ちました。それは天が愛するからであり、神様が絶対的に保護するからであることを知って、統一教会について生命を懸けて学んでみなければならないと思うのです。
解放と自由と統一と幸福の天国
きょう、このような意義深い日に出会い、信じるに値する立場で一番重要な事実について紹介したことを理解してくださり、どうか忘れずにこの道に従って、皆様が新しい覚醒のもとに決意し、皆様の家庭と皆様の国に祝福を誘導する指導者となるようにお願いします。これにより、理想的家庭が皆様の国に出発し始めるのです。
皆様も御存じのとおり、私たち夫婦は真の父母として全世界に知られています。今日、私たち夫婦が本当に真の父母として、真の愛、真の生命、真の血続によって天と連結されたことが事実であれば、この地上には平和を成し遂げた「真の家庭と私」から、解放と自由と統一と幸福の天国が芽生えてくることを心に留めてくださるようにお願いします。皆様の家庭と国に神様の祝福があることをお祈りいたします。ありがとうございました。