真の父母経 第60話
9 私は、避難時代である三十二歳の時、釜山の草梁に初めて来たのですが、まだ若かった頃です。今よりもっとハンサムでした。私は、釜山鎮区(プサンヂング)第四璋頭に働きに通いました。その埠頭で小豆粥を売っていたおばさんたち、蒸し餅を売っていたおばさんたちのことが思い出されます。また、草梁には労務者収容所があったのですが、そこの小さな部屋で『原理原本』を書いたことが思い出されます。とても小さな部屋だったので、横になってもまっすぐには寝ることができず、対角線に寝なければなりません。対角線に寝ても足が壁についてしまうのです。
10 釜山で避難民生活をする時、私の周囲には人々がたくさん集まってきました。私が興味深い話をしてあげると、彼らは食べ物を持ってきて、分け合って食べました。しかし、ずっとそのように暮らしてばかりはいられないので、小屋を一つ準備したのですが、犬小屋よりは少し良い程度でした。
泥土と岩石を材料にして造った、とてもみすぼらしい住みかでした。家を建てられるような土地は一坪もありませんでした。それで、山の斜面に小屋を建てたのです。建ててみると、床の真ん中を湧き水が流れていきました。屋根は古い箱で覆いました。部屋はとても小さなものでした。また、ぼろぼろの服を四ヵ月間、そのまま着ていました。そのような凄惨な状況でしたが、霊的に選ばれた人たちが、私を訪ねてきたのです。
11 お父様は、この道を出発しながら、釜山の凡一洞につばめの巣のような家を建てることになりました。家を建てるにはシャベルが必要です。シャベルを借りようとしても、誰も貸してくれませんでした。避難民たちはお金になりさえすれば何でも売ってしまうので、そのような人だと思って、貸してくれないのです。家を建てなければならないのに、シャベルもなく、お金もなければ、どうするのでしょうか。仕方なく、火搔きでしました。つるはしもないので、火搔きで地面をならしたのです。また、煉瓦を作る道具を借りようとしましたが、それも貸してくれませんでした。それで、アメリカ軍の部隊に行って戦闘糧食の段ボール箱をもらい、角を広げて貼りつけ、その上にこねた土を塗って家を建てました。とてもたくさんの土を使いました。そのようにして、つばめの巣のような家を建てたのです。
12 以北にいる頃から会っていた食口たちが、韓国に下ってきました。昔のお父様を忘れることができず、訪ねてくるのです。聖日になると、釜山の凡一洞の小さな家で礼拝を捧げました。家は小さいのですが、その家がどれほど有名か分かません。土地がないので、山の斜面を削って建てました。そのようにしても誰も何も言わないので、山の斜面を横に掘って建てたのです。雨が降るとその部屋から水が湧き出ました。どれほど味わい深いでしょうか。二十一世紀の最高の文化住宅です。ですから、仕方ないではないですか。地面をおよそ半尺ぐらい掘り、石を拾ってきて水門を造るのです。水門を造って、その上にオンドルを置きました。そのオンドルの下には湧き水が流れるのです。そのような有名な家です。
13 一九五三年に休戦協定が結ばれましたが、(それ以前の)「六・二五動乱」が続いている時のことです。当時、アメリカから入ってくる軍需物資の船団が、列をつくって釜山港に入ってきました。毎朝起きると、お父様はそれを数えるのです。普通は五十隻で、ある時は百隻を超えることもありました。それを見れば、戦況がどうなるかを知ることができます。軍需物資を補給する船の数が増えているのを見ると、「ああ、この戦争は熾烈になるだろう」と考え、船が少なくなれば、「ああ、もう戦争が小康状態になるのだろう」と考えました。その当時、お父様に従っていた食口たちが何人かいました。霊界を通じて縁をもち、出会った食口たちが、凡一洞に一人で住んでいたお父様を急ぎ足で訪ねてきたのが、ついきのうのことのようです。
14 お父様は昔、避難時代に釜山でたくさんの涙を流していた時がありました。世の中にそのような家はありません。岩の上に家を建てておいたのです。入ってみると、小さなテーブルが一つ、それから絵を描くキャンバスがありました。「六・二五動乱」に参戦したあと、故郷に帰るアメリカ軍部隊の人たちに肖像画を描いてあげたキャンバスが一つあったのです。テーブルとキャンバスの二つしかありません。悲惨なことです。お父様は、左右四ヵ所にポケットが付いたアメリカ軍の作業服を赤褐色に染めて着ていました。また、真っ青に染めた韓国服のズボンを、裾のひもも結ばずにはいていました。靴はゴム靴を履いていました。それも同じ大きさのものではなく、片方は大きく、もう片方は小さいものを引っ掛けて歩きました。そうして、岩の上に独り寂しく座り、祈りながら涙を流したのですが、その岩が涙岩です。
15 私たちが釜山で避難生活をした時、金元弼が絵を描いて売りました。私は枠を作り、紙に線まで引いてあげました。顔に鼻だけ描けば、あとは私がすべて塗りました。共に夜を明かしながら描いたのです。夜の十二時から始めて、一晩で肖像画を三十枚まで描きました。それをすべて描くためには、線を先に引かなければなりません。三十枚ずつ持ってきたら、まず線を引き、その線に沿ってかたどって描くのです。ですから、その線をすべて私が引いてあげるのです。
一枚につき四ドルでした。アメリカ軍の人たちが帰国するとき、自分の妻にお土産にする物があるでしょうか。自分の妻の肖像画が最も良い贈り物であることを知って、その仕事をしたのです。今なら三十ドルや四十ドルどころか、三百ドルくらいはもらえるでしょう。ですから、一晩で二十枚以上描くのですが、それを一人では描けないので、私が手伝ってあげました。夜を共に明かしたのです。
16 私は、金元弼を連れてボムネッコルで暮らしていた時が良かったと思います。その時が良い時だったというのです。幼稚園や小学校の時代が最も良いのです。なぜなら、父母が自分を迎えに来てくれたり、待っていてくれたり、自分のために尽くしてくれる時の(心の)ゆとりが、どの時期よりも多いからです。ですからその時期が、ほかのどの時期よりも良いのです。
その頃は、互いにために生き合う心に満ちていました。そのようなことを感じたので、あの頃が良かったというのです。お父様とみ旨を中心として、心情的な絆が、ほかのどの時期よりも深かったので、あの時が良かったと思うのです。
17 釜山の凡一洞の聖地は、共同墓地の近所にあり、石だらけの谷間のほかには何もありませんでした。そのような所に、お父様はみすぼらしくて粗末な仮小屋を建てました。しかし、その中で暮らしながら、この地上のいかなる宮中で栄光を享受しながら暮らす人よりも、神様の息子として孝行ができる一番の道を歩んでいました。また、誰も及び得ない深い内心の基準に到達することが願いでした。その当時は、外面的に見ると、何もありませんでした。一文の価値もない人のようでした。ひげはぼうぼうと生え、顔は黒ずむままに黒ずんでおり、服装は韓国服と洋服を合わせて着ていたのです。
18 皆さんは、釜山のボムネッコルの聖地で、お父様が岩を抱きかかえて悲痛に思った心情を知らなければなりません。
「六・二五動乱」の時、貨物船で埋め尽くされた釜山港、武器を運ぶための船で埋め尽くされた釜山港を眺めながら、どのような祈りをしたのか、皆さんは分からないでしょう。その時のその祈りが、すべて成就しました。統一教会は、名実共に孤児の立場、世の中の誰も歓迎せずに見捨てられた立場から立ち上がりました。通過しなかったところがありません。忠孝の道理を果たし得る道があるのなら、その道を訪ねていこうと身もだえしながら準備した男が、皆さんが従い、信じ、侍る、お父様なのです。
19 世界の有名な牧師たちが今(一九八六年)、韓国を訪問していますが、何のために韓国に来るのでしょうか。私が座っていた釜山の聖地を訪ねてくるのです。その時は、それこそ避難民として哀れな姿をしていた時でした。そこに座り、「あの大海を渡り、私が心で待ち望んだ心情の絆の種を、あの国に行って蒔いておかなければならない」と考えました。氷山のようなこの世界に、父母がどこにいて、妻子がどこにいて、子女がどこにいるのかというのです。その時が「六・二五動乱」の時です。釜山の海を眺めながら、そのような祈りをしました。神様は、「見てみなさい。この先、世界はこのようになる」と言いながら、大きな商船、天の商船に私を乗せ、数多くの群衆が歓呼するのを見せて、慰労してくださいました。