平和経 第329話
9.天は韓国を呼んでいる
日付:一九九〇年七月六日
場所:韓国、ソウル、ヒルトン•ホテル
行事:対ソ、韓日経済使節団派遣説明会
今夜、私の招請でこの場に参加されました韓国の経済界の指導者の皆様。この場をお借りして、私が生涯を捧げて神様のみ旨を地上に具現するために尽力してきた内容とその目的について、お話しできることを喜ばしく思います。大変動が予想される今日の韓半島を中心とした世界の経済界が、今後どのように発展しなければならないかということについて、平素、私が抱いてきた根本的な考えの一端を披瀝したいと思います。
「天は韓国を呼んでいる」という題目でお話をさせていただきます。祖国の繁栄と統一のため、また人類と世界の福祉のために御苦労される皆様のお役に立つことがあれば幸いです。
人類は歴史を通し、「真」の根源を探し求めてきました。神様の存在の有無に対する問題もまだ解決できていません。哲学は、歴史を通して神様を探し出そうとしましたが失敗し、宗教の教祖である聖人たちは、神様のような基準で生活をしながら人類を教え導きましたが、現在の世界を見ると「神さえも死んだ」と言われる終末となってしまいました。
歴史的に重要な問題も神様に対する解決であり、人類の重要な問題も神様に対する解決なのです。神様をはっきりと知るようになれば、すべての問題が解決し、解放されるのです。人間に対する問題、万物に対する問題、世界と宇宙に対する問題なども、自ずと明らかになるのです。
そこで私は、神様を発見しようと千辛万苦の努力の末に、神様が存在することをはっきりと知るようになりました。その神様は、永遠、不変、唯一の方です。その方はまた、絶対的存在なので、その方を通してのみ、絶対的価値を見いだすことができるのです。
それでは、神様にとって絶対に必要な絶対的存在は果たして何でしょうか。物質、知識、権力でしょうか。それらは、願いさえすればいつでも創造できるものであり、神様御自身が自由に調節できるものです。しかし、真の愛だけは神様も自由にできません。
すなわち、真の愛は、相対圏を通してのみ探し出すことができ、顕現し、成立するものなので、一人ではその刺激を感じることができないのです。相対的創造世界が必要なのです。したがって、神様が被造世界を創造されたのは、真の愛の理想のためです。
被造世界の構造を観察してみると、鉱物世界、植物世界、動物世界は愛を中心として相応できるように、すべてペア•システムになっており、レベルによって低いレベルは高いレベルに吸収されるように創造されています。そして、結局は被造世界最高の存在である、神様の対象格である人間に到達するようになっているのです。
人間だけが神様の真の愛の相対となるように造られたというのです。それで人間について、「万物之衆唯人最貴(万物の中で人が最も貴い)」と言ったのです。その言葉は、理にかなった言葉です。人間がいなければ神様の真の愛も成立させることができません。絶対的な神様も、絶対的真の愛の前には絶対的に服従したいと思うのです。これは貴い言葉です。この言葉が成立しなければ、神様に喜怒哀楽という概念は見いだすことができないのです。神様はこのように最高の価値の位置に真の愛を立てておかれました。神様は、御自身が先に絶対服従して、初めて「人間と万物もその真の愛に絶対服従しなければならない」という命令ができるのです。
それでは、神様の真の愛の相対である人間をどれほど貴くお造りになったかを見てみましょう。若い男性と女性が結婚するとき、相手が自分よりも素晴らしく立派であってほしいと願わない人がいるでしょうか。また、子女をもった親なら、自分の子が自分よりも劣った人になることを願う人がいるでしょうか。絶対にいません。そのような心はどこから来たのでしょうか。すべて神様に由来しているのです。
それは言い換えれば、神様も、御自身の真の愛の対象である人間が、御自分よりも立派であることを願っておられるということになるのです。このように、人間の価値は神様の高貴な傑作です。皆様、そのようなことを考えたことがありますか。人間は神様の傑作なのです。
創造当時、神様は一〇〇パーセント、御自身を完全投入され、無限に投入されて忘れる、そのようなところで循環運動を始められることによって、永生の起源を備えてくださったのです。投入して、また投入するところから、循環運動が続くのです。ここで、永生の論理を見いだすことができます。真の愛は、このように与えても記憶しないところから始まるのです。真の愛とはいったい何かというとき、正にそうだというのです。すなわち、神様の創造理想は、ために生きる愛から始まり、ために生きては、またために生きる愛から真の愛が成立するのです。
宇宙創造の目的は、神様を縦的父母として侍り、堕落していない人類始祖を横的父母として、ために生きては、またために生きる真の愛の存在として、永遠の生命を存続させる真の愛の圏内でのみ成就されるのです。真の愛でのみ完全一体と統一が成立し、また相続権と同居権、同参権を得ることが可能になるのです。
それでこそ、人間にとっては神様の愛が私の愛となり、神様の生命が私の生命となり、神様の血統が私の血統となり、神様のみ旨が私のみ旨となるのです。すなわち、神様の理想が私の理想となり、私たちは永存される神様の子女として永生する理想家庭と理想世界を築くのです。
しかし、今日の世界を見ると神様が理想とされた本然の世界ではなく、罪悪が氾濫し、戦争の歴史を繰り返しながら、疾病と苦痛に満ちた地獄世界となってしまいました。人間を除いた自然界は何の罪もないのに、人間世界のために害を被っているという事実を考えるとき、人間世界が病んでいることは否定できません。
このように、病んで故障した人間世界のことを、宗教的には「堕落世界」と表現するのです。神様は、このような世界を原状に戻そうと救援摂理をされるようになったのです。救援摂理は復帰摂理です。救援摂理は再び帰る復帰の摂理です。それで、復帰摂理は再創造摂理だというのです。故障したので、元の青写真を中心として、再び制作しなければならないということです。すなわち、本然の世界で、ために生きる真の愛を中心として、永生の世界で利他主義を実現して生きるようになっている人間が、偽りの愛の中で死亡の世界に向かう、自分を中心とした堕落世界に転換されてしまったというのです。本然の世界の主人である神様と堕落した世界の主人であるサタンが対立するようになった理由も、闘争の歴史を経てくるようになった理由も、ここにあるのです。
また、人類歴史は善悪の闘争史です。共産党のいう唯物史観的闘争史ではありません。神様は、真の愛を中心とした真の父母、真の子女、真の家庭、真の国家、真の世界、そして真の宇宙を立てて、真の愛の理想で主管しようとされたのですが、サタンが偽りの愛を中心として、偽りの父母、偽りの子女、偽りの家庭、偽りの国家、偽りの世界、そして偽りの天宙を立てて主管してきたのです。
これを取り戻すために、人類歴史は善悪の闘争史として反復してきたのです。すなわち、個人から永遠の世界に至るまで、サタンは神様の原理的歴史発展に従いながら、原理的世界を真似て、真のものが来る前に、あたかも真のものであるかように振る舞い、先手を打って原理の世界を破壊しようとするので、善悪の闘争が不可避になるのです。
したがって、私たちが知らなければならないことは、神様が利他主義の立場に立って再創造摂理をされながら、ために生き、またために生きながら、打たれて取り戻してくる作戦を取られる反面、サタンは自分を中心とした立場に立って、先に打って損害賠償までする道を歩んできているのです。神様の作戦は打たれて取り戻してくる作戦であり、サタンは打って滅びるのです。このように善の側は、打たれ、迫害と犠牲を払いながら発展していくのですが、サタンはその反対なのです。