自叙伝・人類の涙をぬぐう平和の母 第10話

暗闇の诗代、主を迎えるための選択

「これからは外出をするとき、この靴を履くようにしなさい」

「これは何という靴?」

「ハイヒールというものだよ」

日本統治時代、ハイヒールは少し田舎に行くと見かけない、珍しい物でした。そのような中、

母方の祖父である洪唯一は、自ら市場に行ってハイヒールを買い、家の女性に配るほど、近

代の文物を柔軟に受け入れていました。背が高く、親近感を持たれやすい好男子だった祖父は

第二章私は独り娘としてこの地上に来ました、

このように進取の気性に富んでいて、人々の尊敬を一身に受けていました。儒教の伝統が厳

格に残る家で育ったにもかかわらず、時代の先を行く人でした。

私が小学校を卒業した頃、初めて文総裁を見て、心の中でこの祖父にそっくりだと思いまし

た。ですから、文総裁に対して見知らぬ人のように感じることは全くありませんでした。

小柄で容姿端麗だった祖母の趙元模は、新しい時代の教育を受けた女性でした。勤勉で活動

的な性格で、住んでいる地域で「平安商会」という店を開き、ミシンを売って生計を立ててい

ました。時には壊れたミシンを修理する仕事もしていました。

当時、ミシンは憧れの嫁入り道具として挙げられるほど、貴重で高価な機械でしたが、祖母

は結婚を控えた女性たちにそれを安く売ったため、評判になっていました。ミシン代を一度に

払えない人には、一年かけて分割して払ってもらうようにもしていました。祖母が私を背負い、

その月の代金を受け取りにあちらの村、こちらの村と回ったおかげで、幼い私は祖母の背中

にいながら、世の中というものを少しずつ学ぶことができました。

母の洪順愛は、主の再臨を待ち望む祖母の情熱的な信仰を受け継ぎ、十九歳まで長老派の教

会に通いました。「順愛」という名前も、教会の牧師が付けてくれたものです。祖父一家が定

州を離れ、清川江を渡って平安南道の安州郡安州邑信義里に引っ越した後、母は安州普通学校

に通い、一九三六年には平壌聖徒学院を卒業しました。

父の韓承運と母は、一九三四年三月五日、婚礼を執り行って夫婦になりました。私が生まれ

たのが一九四三年なので、結婚後、九年を経てようやく私が誕生したことになります。両親共

に、それぞれ信仰生活と教会活動に没頭していたため、私が生まれるまで時間がかかったので

しょう。

母方の祖父母は父を婿養子にしようとしたのですが、父はこれを受け入れませんでした。韓

氏の家門の長男であり、遠く、黄海道の延白で教師として働いていたので、妻の実家に入るこ

とはできなかったのです。さらに、信仰心が篤い母は教会のことに専念していて、家にいるこ

とも稀だったので、一緒に過ごすのも簡単ではありませんでした。そのような理由から、私は

信義里にある母の実家で生まれ育ち、自然に神様を受け入れるようになりました。

父は、解放を迎えた一九四五年に、萬城公立普通学校で働くようになりました。ところが、

自分の国を取り戻したという喜びも束の間、今度は共産党の蛮行と脅しが日に日にひどくなっ

ていくのです。父は南に行くことを決心し、私が数えで四歳の時、突然家に帰ってきました。

「共産党による弾圧で、これ以上、北で暮らすのは難しいので、南に行って新しい生活を始

めましよう」

父の言葉に、母は当惑しました。当時、再臨主に会うという一念で熱心に信仰生活をしてい

た母でしたが、主に出会った後はどうするかという具体的な計画はありませんでした。ひとえ

に、主に会わなければならないという切実な思いでいっぱいだったのです。ところが、父に懇

願されたことで、母も自らに深く問わざるを得ませんでした。

r主にお会いするために、み旨の道を行くのが正しいだろうか。それとも、平凡な家庭の主婦

として生きるのがよいのだろうか」

その分かれ道で思い悩んだ母でしたが、心の中で決着をつけ、父にきっぱりと言ったのです。

「迫害に屈せず、この地で主を迎える信仰の道を守ります」

母の決心は、父にとって実に意外なことでした。ですが当時の平壌は、「東洋のエルサレム」

と呼ばれるほどキリスト教が復興しており、多くのキリスト教徒が再臨のメシャを迎える準

備をする神聖な場所になっていました。

聖書には、再臨主が「雲に乗って来る」と書かれていましたが、平壌の神霊的な集団では「

肉身を持って来る」と信じられていました。母もまた、再臨主は「肉身を持つた人間」として

来られると信じていました。これまで祖母から篤い信仰を受け継ぎ、新イエス教に通いながら

献身的に歩んできた母は、メシヤを迎える家系として忠実に使命を果たそうと決意したのでし

た。

父は夫として、また父親として、人倫の道理を果たそうとしましたが、天の摂理はついに家

族を別れさせてしまいました。家の門を出ていく父の後ろ姿を見ながら、幼い私は「また会え

るだろう」と思っていましたが、それが、私が最後に見た父の姿となりました。

一人で南に下った父は、四十年以上の間に、十五、六力所の学校で教鞭を執ったそうです。

その身をすべて教育に捧げ、最後には校長まで務めた後、教職から退きました。そうして一九

七八年の春、神様の元に安らかに旅立ったのです。ずっとあとになって、天正宮博物館を京畿

道加平郡に建設する際、そこにある美原小学校に父がしばらく勤めていたことが分かり、天の

導きを感じました。

私は、子供の頃に北で父と別れて以来、生涯、父に会うことはできませんでした。時々、『父

は今どこで何をしているのだろう?』と気になることはあっても、搜そうとはしませんでし

た。幼少の頃から、祖母と母に言われた言葉を、胸と頭の中に深く刻み込んでいたからです。

「神様が、お前の父親だよ」

私はその言葉を、決して揺らぐことのない真理として受け止め、育ちました。神様の娘とし

て生まれたのだから、私の父親は神様であると固く信じていました。そのため、肉親の父に対

して、私的な感情は持たなかったのです。

私が日本の統治と韓国動乱を経験し、祖母一人、母一人の家庭であらゆる逆境を孤独に乗り

越えながら_育ったその期間は、天が用意した準備の期間でした。その準備を通して、世を救う

真の母になるわけですが、結果的には父もまた、陰ながら力添えをしてくれたことになります。

Luke Higuchi