平和経 第80話
10.神様の祖国と平和王国は解放と釈放圏の上で
日付:二〇〇四年五月一日
場所:韓国、忠清南道、牙山、鮮文大学校
行事:「世界基督教統一神霊協会」創立五十周年記念式
尊敬する前•現職の首班、世界各国から来られた貴賓と大韓民国の内外の指導者の皆様。きょう、公私共に多忙でいらっしゃるにもかかわらず、この式典に御出席され、このように満場の盛況を呈してくださったことに対して、心から感謝申し上げます。
神様は私たちの父母
私が一九五四年五月一日、ソウル市北鶴洞(プッカクトン)のみすぼらしい「三つの門の家」で、幾人にもならない弟子たちと共に、「世界基督教統一神霊協会」という看板を掲げて天のみ前に深刻な祈りを捧げたことが、きのうのことのようです。
しかし、今日、世界百九十一ヵ国に宣教部を置き、日進月歩の飛躍的な発展を繰り返す「世界平和統一家庭連合」に成長したという事実を前にして、これを「天の奇跡ではない」と言う人がどこにいるでしょうか。
私がかつて、十六歳(数え)の胸を躍らす青年期に天の召命を受け、悲壮な覚悟で出発したのが、この天の道でした。この道は、実に言い表せない苦痛と受難の道でもありました。
蕩減の峠を越えるたびに、血と汗と涙を流す犠牲の道でした。立てた息子の悲惨な姿を見守られ、胸を痛める神様の心情を慰労してさしあげるために、血の涙を心の中だけに抑えて生きてきた孤独な男の道でした。
それでも、過ぎし八十有余年を、天から受けた真理を教えることに捧げて生きてきたのが私の人生です。その内容を総整理するという意味で、「神様の祖国と平和王国は解放と釈放圏の上で」という題目でお話ししようと思います。
私たちがはっきりと知らなければならない神様と霊界
貴賓の皆様。私が生涯をかけて教えてきた内容の中で、最も重要だと強調してきたことがあります。それは、神様と霊界についてはっきりと知らなければならないということです。言い換えれば、漠然と頭だけで知り、数学の公式を覚えるようにして理解する神様ではなく、私たちの心臓に、そして骨髄の中にまで神様の存在を刻みなさいというのです。
神様が私たちとどのような関係をもっている方であり、どのような属性をもっておられる方なのかということです。そして、神様が太初に願われた理想世界とはどのような世界であり、いつそのような世界が成し遂げられるのかということです。霊界についても同じです。人間の選択権外に厳然として存在する死後の世界を正確に知っていてこそ、現世において私たちの人生の中で徹底的に準備することができるのです。
皆様、胸に手をおいて静かに一度考えてみてください。皆様が、本当に神様がいらっしゃることを知り、その神様に常に侍って暮らせば、世の中のすべての諸問題の中で、解決できない問題がどこにあるでしょうか。
きょう私は、皆様に単刀直入に宣布します。神様は、明らかに存在され、私たち全員の人生の中で生きて役事される私たちの父母でいらっしゃるのです。その方は、無形の存在であられます。大きいとすれば無限大に大きい方であり、小さいとすれば無限に小さな存在であられます。人間なら誰でも心をもっていますが、その心がどこに位置しているのかを、自信をもってはっきりと語ってくれる人がいるでしょうか。
世の中には、エネルギーが明らかに存在し、私たちの生を営為させていますが、そのエネルギーを私たちが見ることができないのと同じように、神様も絶対的に存在され、永遠、不変、唯一の属性をもっておられる方ですが、私たちの肉身の一部である人間の目では見ることができないのです。神様は、エネルギーの本体なので、霊界に行っても見ることができません。
それで、神様は全知全能で遍在される方だと言うのです。無形の存在なので、存在世界を思いどおりに出入りしても、全く支障がありません。
神様が皆様の体を通過していっても、皆様は何も感じることができないというのです。うとうと居眠りしている皆様の頭を、踏んでいっても分かりません。ですから、どれほど便利でしょうか。もし神様が、皆様の一挙手ー投足に対して、一つ一つ顕現して指摘し干渉されるとすれば、どのようにして生きていくのでしょうか。皆様の目で神様を直接見ながら生きていきなさいと言えば、生きていけると思いますか。恐らく神経が衰弱して、一日も生きていくことができないでしょう。
皆様が今この場に座っていながら、ものすごい量の空気が体の中を出入りしても、それを見ることができないのに、ましてや無形の存在であられる神様が皆様を通過して役事されるのを、どうして見ることができるでしょうか。皆様は、「神様を見せてくれれば信じる」という愚かな主張をするのではなく、神様が私たちの目に見えないことをむしろ有り難く思うべきです。
世界の指導者の皆様。皆様は愛をもっていますか。生命をもっていますか。血統と良心ももっていますか。そうだとすれば、愛を見たことがありますか。生命、血統、良心を見たと言うことができますか。それらが明らかに存在することははっきりと知っていますが、これらを触ることも、見ることもできないという事実を認めざるを得ません。心で感じて初めて知ることができるのです。同じ論理で、神様がいるかいないかと言うとき、あるいは、神様を見たのか見なかったのかと尋ねるとき、いないということも、見なかったということも言うことができないでしょう。
心の中に神様が入ってきていらっしゃれば、心が感じます。全知全能の神様が共にいらっしゃれば、何千年前に死んだ聖人たちを呼んでくることもでき、厚い壁の向こう側に誰が座っているのかもはっきりと見ることができます。永遠であられる神様が心の中に入ってくれば、そのようなことが可能なのです。永遠を時間で捉えることはできません。永遠の中に時間があるからです。
堕落によって失ってしまった神様
そして、私たちがいるこの宇宙は、神秘に包まれています。その大きさが数百億光年にもなる大宇宙です。地球の周囲を一秒間に七周半も回る光が、一年間で進む距離が一光年なのですから、この大宇宙を創造して主管する主人とはどのような方かを考えてみてください。
大きければどれほど大きく、重ければどれほど重いでしょうか。知恵の大王であられる神様は、御自身を無形で存在するようにされ、あっという間に全宇宙を運行なさることもでき、小さな針の穴でも思いどおりに運行なさることができるのです。
最高の宝物である神様をどこにお迎えするのかを自問するとき、私たちの心しかないという結論が自動的に出てくるはずです。私たちの心より安全で、安らかにお迎えできる所はないというのです。神様の対象の位置に立ち、球形運動をしながら永続できるのが心なので、人間は永生できるのです。
人類が堕落せずに本性の善の父母を通して生まれていれば、「神様がいるかいないか」という論争は必要なかったはずです。赤ん坊がおなかの中でお乳を飲む方法を学んで出てくるのではないのと同じように、人間の先祖の堕落がなかったならば、人間は誰でも自動的に神様を父として侍って暮らすようになっていたのです。
人間の先祖としてつくられたアダムとエバを、神様御自身の実体として立てるために、神様の男性性稟はアダムの心の中に、そして女性性稟はエバの心の中に定着して永生するようになっていたのです。だからといって神様が二つに分かれるのではなく、アダムとエバの心の中に臨在しながら、二性性相の中和的存在として、愛を中心とする統一的存在として永存なさるのです。
しかし、堕落によって人類は、すべてのものを失ってしまいました。忘却の世界へ落ちて、神様がいるかいないかさえも分からない青盲の人になったのです。人類史上、これより悲惨な事件がどこにあるでしょうか。
もし神様に似た人間の先祖アダムとエバが堕落せずに成長し、完成して人類の父母の位置を確保していたならば、人類は、彼らの姿を通して生きていらっしゃる神様の実在をいつでも認知できたはずです。そして、「神様はいる」、「神様はいない」という論争は考えることもできなかったはずです。神様は、人類の真の父母として、永遠に私たちと苦楽を共にされたことでしょう。神様は、私たちの生の中心であり、根になっていたはずです。
私たちが生活の中で、五官を通して直接神様を感じ、神様の実在を知るようになって、初めて本当に神様を知っているということになるのです。言い換えれば、神様の実在を体恤しなければならないということです。
このように、神様の実在を私たちの生活の中で直接体恤して生きるようになれば、私たちは、自動的に神様のみ旨とは何かをその一瞬一瞬で感じ、自ら進んですべてのことに臨むようになり、罪を犯そうとしても犯せない完成した人間の姿になるはずです。そのようになっていれば、無形でいらっしゃる神様は、人間の実体をもって主人的人格と形体を備え、有形世界である地上界の万物万象はもちろん、霊界までも主管されるようになっているのです。このように、神様をはっきりと知ることは、人間の生涯において最も優先的で重要なことなのです。
<訓読者を募集しています。御言葉を読んでみ旨に貢献しませんか?ご希望の方は樋口まで連絡して下さい。>