天聖経: 第336話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十一篇 礼式と名節
第一章 侍る礼法
第二節 神様に侍る生活 27-32
第三節 真の父母と侍る生活 1-7
27 神様が私個人のために困難に遭われ、私の家庭のために困難に遭われ、私たちの国のために困難に遭われ、世界のために困難に遭っていらっしゃるので、私自身も私個人のために困難に遭い、家庭のために困難に遭い、社会のため、国家のため、世界のために困難に遭おうというのです。神様を中心として、大韓民国と共に困難に遭おうというのです。正にそれが先生の主義であり、神様の主義です。
「皆が困難に遭っているのだから、私ではなくてもほかにする人がいる」と考えて、こっそり人に押しつけて、機会だけうかがおうとする人は、神様を裏切る人です。一言で言えば、み旨に対する主体性がないというのです。この道を行くためには、愚直でなければなりません。忠臣というのは、ある意味では愚直な人々です。少し愚かに見えるのです。熊のような性格があるというのです。自分が腕を切られても、「ああ、ここはあまり切れていない。もっと切りなさい!」と言える、愚直なところがなければなりません。
28 先生は、今までみ旨のために苦労し、今も、寝ても覚めてもその道を歩んでいます。先生の近くで侍ったことのない人は、先生のことをよく知りません。先生は、寝ていても、目が覚めれば、うつ伏せになって祈ります。なぜ、そのような生活をしているのでしょうか。この夜中にも、世界中の愛する子女たちが先生を頼り、神様のために祈っているからです。一緒に精誠を尽くせなくても、それに劣らずに拍子を合わせてあげるべきではないでしょうか。先生が寝ているときは分からないので、神様も許してくださるのです。
29 先生は、どのような人でしょうか。一つの才能しかない人です。愚直に、ひたすらまっすぐにのみ行く人です。口を閉じ、じっとしながら適当にやって帰ればいいのに、なぜしきりに悪口を浴びるように働き掛けたりするのでしょうか。多くの人々の反対を受けてこそ、一つの峠を越えていくからです。しかし、皆さんは、帰ることを考えています。なぜ、世の中のすべてのものを切り捨てて行かなければならないのでしょうか。母や父の愛に引かれれば、まっすぐに行けないからです。神様が今までまっすぐな道を訪ねてこられたので、まっすぐに行かなければならないのです。
30 神様が寂しい方で、孤独な方で、先生のような方で、私の事情を分かってくれることを知ったので、死ぬ日まで、その方のみ旨と願いを一つでも解いてあげ、その分野を一つの土台でも拡大させて、神様のために生きる人を集めることが、私の使命だと思ってきました。悪口を言われても反論せず、むち打たれても復讐しないで、愛によって耐えてきたのは、神様の子女として生まれたからであり、その方のみ旨を立てるべき責任があったからです。この伝統をどのように立てるかを考えながら、ふらふらになって歩き、腰を曲げながら歩き、這いつくばってでも、これだけは残さなければならないと言いながら、闘ってきたのです。
31 真の父母がするのは、すべてのことに勝利して、神様の心の奥深いところまで訪ねていき、恨を解いてその勝利圏を地上に成し遂げることです。そのような真の父母が出現したことに、皆さんは、感謝しなければなりません。縦的真の父母である神様が、地上に再臨主を送って地上解放を成し遂げるまで、どれほど悲惨だったかを知らなければなりません。私たちは、今、偉大な時代を迎えました。なぜなら、真の父母を中心として孝子、孝女になることを誓えるからです。
32 皆さんは、み旨の道を歩みながら、どれほど深刻になってみましたか。先生は、一生の間、そのような道を歩んできたのです。これは、妻子も知らず、私だけが知り、神様だけが知っています。孤独単身、寂しい男が行く道を誰も知らない中で、神様が協助し、驚くべき実績をもって、今日この社会に問題を提示し、また疲弊していくこの民主世界の思想圏内に新しい波紋を提示する問題の人物になりました。このようになったのも、私が立派だからではなく、神様が共にいてくださったからです。
第三節 真の父母と侍る生活
1 皆さんは、今から、真の父母と一緒に暮らさなければなりません。神様は祖父母の立場であり、真の父母は父母の立揚であり、自分たちは子女の立場だというのです。三代が共に暮らさなければならないという結論が出てくるのです。神様が「私」と共にあり、真の父母が「私」と共にあることを感じて暮らさなければなりません。
真の父母様に侍る生活
2 皆さんは、真の父母の本当の息子、娘ですか。子女とは何でしょうか。真の子女とは、真の血統をもっていることを意味するのです。もちろん、真の子女は真の愛を通して関係が結ばれるのですが、真の血統を通して連結されるというのです。そのため、真の血統を通して連結されたものは、父母に似るのです。皆さんは、先生に似ましたか。皆さんの目は青く、私は黒いのです。髪の毛も違います。私は東洋人で顔が平たいのです。一番の骨子に似なければなりません。サタンに勝つことと神様を絶対に愛すること、これに似なければなりません。
3 皆さんは、先生を、どれほど愛するべきでしょうか。サタン世界の愛の痕跡がある、その愛が染みついた立場で愛してはいけません。それ以上でなければなりません。サタン世界で生まれた皆さんの父母、妻子、その誰よりももっと先生を愛さなければなりません。それで聖書に、「わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない」(マタイ一〇・三七)とあるのです。そのような結論を下したのです。そうして、そのあとには「自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ一六・二四)と言ったのです。十字架を背負わなければならないと言いました。反対に引っ張っていく力を押さえて越えようとするので、十字架です。ここで悲痛な涙を流さなければなりません。
4 祝福の場は、世界で最も良い立場です。その祝福の場は、誰と関係を結ばなければならないのでしょうか。皆さんは、自分自体で完成するのではありません。純粋に、父母様の愛によって完成するのです。子女が父母の懐から生まれれば、立派であってもそうでなくても、その父母の形態に似るのです。それと同じように、統一教会では、真の父母の道理を教えてくれます。それが皆さんには福の中の福なのです。
人間の願いは、真の父母に会うことです。死の道を行くとしても会わなければならない人が真の父母です。歴史をすべて失い、時代をすべて失い、自分の子孫をすべて失うことがあっても、真の父母に出会うならば、歴史を取り戻すのであり、時代を取り戻すのであり、未来を取り戻すのです。このような方が、正に真の父母です。
5 すべてのものは、真の父母に出会うことに帰結します。人類の真の父母が現れるのが歴史の願いであり、国家の願いであり、思想の願いであり、摂理の願いです。ですから、そのような真の父母が現れる時は、あとにも先にもない時であり、歴史上に一度しかない頂上なのです。永遠の世界から見れば、人間の一生というものは、一度呼吸をするのと同じような期間です。
6 皆さんは、先生の写真を持ち歩かなければなりません。そうすれば、どのような苦難に遭うとしても、無事に耐え抜けるように保護してくれるでしょう。モーセがイスラエルの民をエジプトのパロのもとから脱出させ、カナンへ導くために奇跡を行うとき、エジプトの長子が患難に遭って死にましたが、羊の血を門の柱に塗ったイスラエルの民の家は、その患難がすべて避けていったのです。霊界からは、人間のすべての行動を見ることができるだけでなく、保護もしてくれるのです。
7 イスラエル民族がエジプトから出てくるとき、門の柱に羊の血を塗って災いを免れたのと同じように、先生の写真を持っていれば、それと同じようなことが起きるでしょう。先生の写真をいくらポケットに入れておいたとしても、霊界では分かるのです。皆さんの先祖たちが、これを媒介体にして連結されます。そのような良い材料だと知っているのです。これを持って歩くときは事故が起きず、故障が起きないのですが、この写真を置き忘れてしまうと、そのようなことがすぐに起き得るのです。それによって、先生の写真がどれほど貴いかということを、皆さんが悟ることが頻繁に起きるというのです。