天聖経: 第334話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十一篇 礼式と名節
第一章 侍る礼法
第二節 神様に侍る生活 6-15
6 皆さんは、おなかがすけば、「ああ、おなかがすいた!御飯、御飯、御飯!」と言いますが、誰のために食べようとするのですか。神様のために食べようとするのですか、自分のために食べようとするのですか。神様のために食べなければなりません。そのようにして、神様の完全な聖殿を造らなければなりません。「私の中にいる神様がおなかをすかせて、御飯を食べようとおっしゃっている」と考えなさいというのです。そのように御飯を食べれば、その御飯は聖なる御飯になるのです。トイレに行くのもそうであり、息をするのもそうであり、すべて同じです。
聞くのも、「私一人で聞く」と考えてはいけないというのです。見るのも、触るのもそうです。「私一人でする」と考えてはいけないのです。人と会うのも、サタン世界と向き合うのも、神様が向き合うと考えなさいというのです。話をするにしても、神様が話すと考えなさいというのです。
そのように神様と完全に一つになったあとには、私を中心として生き、私を中心として考え、私を中心として愛するのが原則です。そのときは、自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心として考えることになり、神様を中心として愛することになるのです。それが原則です。
7 神様に侍った者として、皆さんは、うれしいとき、神様をどれほど喜ばせてさしあげましたか。皆さんは、おなかがすいたとき、御飯を食べながら感じる有り難み以上に、神様に侍ってさしあげなければなりません。皆さんは、良い物を食べるときや着るとき、そして、悲しいときや困難なときにも、常に神様に侍らなければなりません。そうして、神様の心に記憶される事情を残しておかなければなりません。
8 天は、その心情と通じる人の手によって万物が触れられることを願っていらっしゃいます。心情が通じる子女によってすべての息子、娘が抱かれることを願っていらっしゃいます。心情が通じる新婦によって、神様の主権が成し遂げられることを待ち望んでいらっしゃいます。心情が通じる息子、娘に、この世界が主管されることを待ちわびていらっしゃるというのです。これを皆さんは、考えてみましたか。考えれば考えるほど、途方もないことだというのです。
このような神様の願いが「私」の一身だけでなく、世界と天宙にまで連結されていることを考えるとき、「私」は父のものであることを否定できません。ですから、私の心も父のものであり、私の心情も父のものであり、私の意識と直観と感覚器官のすべてが父のものであり、私が感じ、意識する全体が父のものだという思想が確立されていなければなりません。
全力を尽くして天の願いを成し遂げてさしあげなければならず、死の道がいくら恐ろしいとしても、高笑いしながら越えられる強烈な心情と信念をもち、それを克服していける自分自体にならなければなりません。
9 神様に侍るには法度があります。その法度に背けば、神様は、非常に立腹されます。子女を愛する父母が、子女の一言の言葉で胸に釘を打たれたり、抜かれたりするのと同じように、神様も人間を愛していらっしゃるがゆえに、憤りが多いのです。そのため、まかり間違えば神様から怒りを買うことになります。それで先生も、いつも神様を喜ばせてさしあげようとするのです。
10 六千年の歴史を縦的に見れば、旧約時代には天の民を集め、新約時代には天の子女を集めました。このように、歴史は逆さまに流れてきたというのです。今日、世の中には、天国同胞の理念を中心として天国を建設しようとする人がいます。また、天国子女、天国兄弟、天国夫婦の理念によって天国を建設しようとする人もいます。
皆さんは、生活の中で天国の法度を守らなければなりません。天国を建設するためには、天が求める天の法度を守り、また天国の法度を守ると同時に、天国生活ができなければなりません。そして、天国生活ができると同時に、天国の愛によって一つにならなければなりません。み言はすなわち天国の法度なので、み言を中心として生きなければなりません。ここに皆さんの道があるのです。
11 祈りを通して、神霊の役事(働き)を通して恩恵の基準に行けるかもしれませんが、それは霊界から霊人たちが協助してくれるためにできることです。しかし、本来人間は、生命体や生霊体をもつようになっています。「私」自体に霊があるというのです。霊界の協助を受けていない霊力を中心として霊の作用を啓発しておけば、霊人たちが指導してくれなくても、私自体の生霊体に感知できる能力が生じるのです。
このようになって、ある基準にさえ上がっていけば、神様が悲しまれるとき、私にも形容できない悲しみが訪れるのです。ある人に会ってから別れて見送るとき、言葉にできない悲しみが感じられれば、その人の行く道は祭物の道、もしくは神様が哀れむ道です。二つのうちの一つです。そのようなことを実際に感じ、生活圏内で刺激を受けられる立場に立った人が、体恤した人なのです。
12 父母が天倫の原則とともに生活した縁がこの地上に立てられる日、人間本性の人倫道徳が天地に創建される歴史が始まるでしょう。今日、家庭を抜け出す不幸な青年男女が多くいる原因はどこにありますか。天倫の法度に一致した愛が喪失したためです。それで、家庭を中心に神様をその家庭に迎えて座っていただけるようにする天地父母が顕現しなければなりません。イエス様一人が来られただけでは、救世主の使命を果たせません。堕落した人間を、どのように救ってあげなければなりませんか。父母の立場で救ってあげなければなりません。神様は、真の愛の父なので、父自身がこの地上に来て、父母の立場で人間を直接、救ってくれるのです。子女が死亡世界で苦しみながら救いを求めるとき、救ってあげたいのが父母の心情なのです。
13 主体のための対象の立場は、不平があり得ません。不平を言うのは無分別な行いです。破錠です。そのため、信仰の道は不平を許しません。感謝だけがなければなりません。天はいつでも主体としていらっしゃるため、主体と関わり合った運命をもちながら、それを離脱する生活法度、生活形態はあり得ないのです。
14 天理は、順序を正しく守るところから成立します。そのため、主体と対象の関係で、天は絶対的な主体の立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は、対象になれません。絶対的な主体の前に絶対的な対象になろうとするので、絶対的に一つでなければなりません。ですから、見て、聞いて、感じるすべてのこと、家庭に入って愛することまでも、すべて対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。
15 最後に残されるものとは何でしょうか。神様と人間、すなわち神人の生きる道、神人の生活観です。人生観も同じように、神人の人生観、神人の世界観、このようにならなければなりません。それは、漠然と神様に接して人間が理解できる程度の位置ではなく、人が永遠に離れようにも離れられない位置です。神様と人は、本来、離れられない位置で離れたので、その離れられなかった位置以上の位置に到達しなければならないからです。そのような位置で神人が一つとなった生活的な舞台、世界的な舞台を求めていかなければならないのです。