天聖経: 第339話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十一篇 礼式と名節
第二章 礼拝儀式
第一節 礼拝と祈り 12-22
12 皆さんの中には、父母もいれば、子女の人もいますが、皆さんが神様のみ前に出ていくとき、時間というものは何よりも重要です。時というものは、何よりも重要だというのです。時を合わせられなければ、滅びるのです。神様は、この上なく聖別された環境を求め、聖別された心を求めるのですが、時間も守れずに後ろで賛美歌を歌うとすれば、天はそのような賛美歌を願われないのです。
13 神霊の世界に入って祈るなら、まず神様のために祈らなければなりません。主人に会う時間なので、主人の福をまず祈らなければなりません。そのようにしてから、イエス様のために祈らなければなりません。神様のために祈ってこそ、歴史的な神様の心情が分かります。イエス様のために祈ってこそ、歴史的なイエス様の心情が分かるのです。その次に、今までキリスト教界でみ旨のために闘ってきた数多くの人々のために祈らなければなりません。堕落以降、アダムとエバから今に至るまで、数多くの預言者が歩んだ一歩一歩をたどりながら、「私が彼らを解怨する祭物になれるようにしてください」と神様に祈りを捧げたあと、預言者たちに、「私はあなたたちの恨が地上に残っていることを知り、その恨を解こうと思うので、協助してください」と言いながら、涙を流せるようでなければなりません。そののちに、愛する自分の息子、娘のために祈り、その次に自分のために祈るのです。天法がそうなっています。
14 先生は、祈るとき、「今まで私に対してくださった父よ!」という心情で祈ります。きょう、一つの生命を父の前に立てるか、サタンの前に弄ばれるかを決着する岐路で、その生命を天のみ前に立てなければならないという責任を感じながら、祈るのです。説教をしても、世の中の他の説教者たちのように、何かの題名を定めて準備する人ではありません。この時に必要な父のみ言を語ろうとするのです。そのような基準が立たなければ、身もだえし、涙を流しながら祈ります。皆さんの行く道を心配しながら、祈るというのです。
15 精誠を捧げるときは、「絶対に信じます」という境地に入っていかなければなりません。「神様を絶対に信じます。み旨を絶対に信じます」という境地に入っていかなければならないのです。そのような境地でのみ、神様が協助するのです。祈りながらも、祈りが成就されるか成就されないか、疑ってはいけません。「父よ!私だけが残りました。私でなければこの国がなくなり、この世界がなくなってしまいますが、父よ、あなたが六千年間、苦労してこられたこの一つの境地に、私一人が残りました。あなたが成就させるみ旨の近くにいる者が、私しかおりません。私という存在がこのように重要ですが、私はまだ備えができておりません。それでも、そのような私に命令なさったので、私がそのようにできる条件、そのようにできる基盤を備え、この民族の身代わりをいたします。これが復帰摂理ではないでしょうか」と言えなければなりません。
16 祈るときは、最初に、国のために祈らなければなりません。その次に、世界のために祈り、その次に、霊界にいる天使と、霊界にいる先祖のために祈り、その次に、神様の解放のために祈らなければなりません。自分がすべきことが何かも分からず、世の中の運勢がどのように回っているかも知らないで、「おお、主よ。私を天国に送ってください!」と祈るようにはなっていないのです。
今日、私たちがかわいそうなイエス様を解放してさしあげるためには、歴史から、「かわいそうだ」という証言を得なければなりません。歴史の先祖たちから、「お前一人だけは、私たちの子孫として堂々としている。全体の歴史をお前が起こしたのだな」という証言を得なければなりません。また、そこに加えて、「時代的な使命と民族的な使命に責任をもち、息子の使命と父母の使命、孝子と忠臣の使命を果たした」という証言を得なければならないのです。
17 「自分が、あなたの願う息子になれないのなら、息子(メシヤ)を生かすための僕の道だけでも築きます。石のかけらでも持ってきて置くか、板でも一つ持ってきて置き、息子(メシヤ)が渡ってこられる飛び石だけでもつくります」というのが、神様の同情を受けられる祈りです。「私の息子、娘よ!」というのは、同情を受けられる祈りではありません。順番に、世界の聖人を祝福してあげてから、自分の祈りをするようになっているのであって、いくらそのような祈りをしてみたところで、役に立たないというのです。
祈る順番を知らなければなりません。自分の利益のために宗教を信じる人々、福を受けるために信じる人々は、福を受けたならば神様を信じなくなるというのです。福を受けるのが目的だからです。少し豊かに暮らすようになれば、離れていくのです。
18 皆さんが恩恵を受けて霊界に接してみれば、祈りの題名が自然に出てきます。自分が祈ったことを統計で出してみれば、祈りの方法と内容が公式的に発展していくことが分かります。
堕落した人間が最初に祈るとき、世界的な問題について祈ろうとすれば、ばたんとのけぞって倒れるので、初めは、一番近い人、すなわち父母と愛する息子、娘と夫を救ってくださいと祈るのです。その時期が過ぎて発展すれば、祈りの内容が変わります。
それでは、神様のみ旨を知っている人たちは、何のために祈るのでしょうか。自分の家族のためにせず、世界のために祈るのです。また自分が置かれている立場がどのような立場であり、これから神様の願う立場はどのような立場であるかを知って、神様が願うその立場で、蕩減路程を開拓しようというのです。このような人が知恵深い人です。
19 祈るときは、対象を定めて祈らなければなりません。何となく祈るよりも、ある対象を念頭において祈ることが必要です。そのようにすれば、主体と対象になり、授受作用の法則が成立するのです。主体と対象が授け受けする立場で授受作用をするので、皆さんが祈り、精誠を尽くさなければなりません。精誠を尽くすに当たっては、幾千年の心情を越えて、懇切に精誠を尽くさなければなりません。幾千年の心情を中心として内外が一つになり、神様を呼び求めるその場は神聖な場であり、素晴らしい場です。そのようになれば、実体的に感じられるのです。その場で呼び求める「父よ!」という一言の言葉には、最高の美しさが宿っているのです。
20 祈りの基準が、きのうもきょうも同じ人がいますが、そのような人は信仰生活をする人ではありません。毎日のように同じものを見るのですが、それが毎日、異なるというとき、その人は神秘的な信仰世界に入るのです。それでこそ、偉大な信仰世界に入っていって、新しい世界を発見できます。毎日、同じことを続けても、それが良くて味わいがあれば、続ける中でそれを吸収しながら大きくなるのです。
敬礼式と家庭盟誓
21 真の父母様に侍り、餅を分けて食べるのは、私たちが霊的に神様と一つになるということです。一つの体になるのです。このような餅を食べるのは、二つに分かれている人々の体と心を一つにし、父母が一つになり、家庭が一つになり、一族と世界が一つになれるように影響を及ぼすことを意味します。
統一教会の祝福家庭は、毎週、敬礼式をしなければなりません。敬礼式をする日は聖日ですが、聖日にはホーリーフードを食べます。それは堕落することにより、アダム家庭で神様に侍って神聖なホーリーフードを分けてあげられなかった恨を解いてあげるものです。それを解くために、そのような敬礼式とともに、祝い願う心をもって、そのような式をしているのです。
22 統一教会の教会員は、アダム家庭から、氏族、民族、国家、世界、地上天国世界になるときまで、神様に侍って共に一つになる式として、敬礼式を世界に拡張しています。そのため、一週間、聖餐と向き合える時間を、何よりも希望の時間として待ち望まなければなりません。この時間が神様に侍る時間であり、神様と直接関係を結ぶ時間であることを知り、世界の祝福家庭が重要視し、伝統として守っていかなければなりません。