天聖経: 第199話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第七篇 地上生活と霊界

第三章 永生のための地上生活

第一節 永生とは 4-13

4 「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的で主体的な神様の対象が、正に「私」です。神様の愛の相対です。神様が御自身よりもっと貴く思うのは、真の愛の概念です。神様は絶対的であり、永遠の生命の中心です。神様の理想はより永遠なものであり、その理想の中心が正しく真の愛です。その愛の相対が「私」です。愛の属性はどのようなものでしょうか。それは、主体と対象が一つになることです。それは国家を一つにします。

ですから、どの位置にも同参することができ、どこに行こうと従っていくことができます。全財産を相続できます。神様の永生の位置、心情までもすべて相続するのです。神様の愛の心、神様の被造万物と共にあるその心、神様がすべてのものの心にとどまりたいと思う心まで、すべて相続するのです。ですから、どれほど貴いでしょうか。先生がその悲惨な過程を経て発見することにより、その基盤の上に立つようになったのです。どれほど喜ばしいことですか。他の何ものにも代えられない、崇高で、尊厳のある貴い位置です。驚くべき恩賜です。神様と同じ位置に立つのです。永遠の真の愛の位置に同参したのです。外の世界のどこに行っても、韓国のどこに行っても、この永生の概念はありません。「私」は永遠の生命として生まれたので、死んで霊界に行ってみなさいというのです。一瞬で飛躍するのです。

 

5 永遠の生命をもって生まれた「私」が霊界に行けば、飛躍するのです。時空に制限された地球上とは次元が違います。制限されたところでは自由に動くことができませんが、あの世界は次元の高い世界なので、何でもできるところです。時間を飛び越えるのです。愛を中心として、何であろうと願いさえすれば、いつ、どこでもすべて得ることができるのです。無尽蔵です。

神様がいらっしゃる場所は本然の故郷です。本然の父母様の故郷です。何であろうとすべてできるところです。今、霊界に行きさえすれば、私たちは自由です。また他の世界と完全に一つになるので、簡単に通過できます。

 

6 人間も、自分が精誠を込めて完成した作品を自分の子孫万代に残したいと思い、自分の近くに置いておきたいと切実に思うのですが、神様はどうでしょうか。愛らしい息子、娘として生まれた人間を、しばらくの問だけ愛して、それで終えるのでしょうか。永遠に愛したいと思われるのかというのです。ですから、人間が完成して神様の愛を永遠に受けるζとができるならば、神様は人間を永遠に近くに置いておきたいと思われるはずです。

絶対者がそのように喜ぶ立場に立たなければならないので、人間も永生しなければならないのです。永遠に残らなければなりません。人類の先祖であるアダムとエバがそのようになっていれば、アダムとエバの完成はもちろん、神様のすべての願いが成し遂げられるのです。アダムとエバが完成するということは、神様が創造された万物の中心となる人間に対して望んだ願いがすべて完結したことを意味します。

 

7 永生の概念を入れることができるものとは何でしょうか。愛です。信仰の道は肉身生活の準備ではなく、永遠の世界の生活のための準備です。人は、四十歳を過ぎ、五十歳を過ぎて死ぬ日が近づいてくると、永生問題に対して深刻になります。年を取れば取るほど、ますます深刻になります。思考は年を取るほど希薄になりますが、永生の概念を入れると、年を取るほどますます深刻になるのです。ですから、宗教の理念だけが今後、世界を料理することができます。

環境が頻繁に変わり、悲喜劇にぶつかっても、永生の概念さえ徹底していれば問題になりません。問題は、永生という概念をどのように認識するかということです。神様は、アダムとエバを愛の対象として造られました。ですから、愛の対象となって生きなければなりません。それを言葉だけでなく、実感しなければなりません。また体恤しなければなりません。

 

8 何よりもまず神様を知らなければなりません。間違いなく神様がいらっしゃることを知らなければなりません。その次には、霊界がどのようなところなのかをはっきりと知らなければなりません。

霊界を知らなければ、神様も分かりません。アダムとエバが堕落する時に真の愛を失ってしまったので、永生がなくなったのです。ですから、神様、霊界、そして永生が問題です。人間は永遠に生きられるのです。神様が永遠に生きていらっしゃるので、その息子、娘も、当然そのように生きなければなりません。

 

9 一番重要なものは永生です。しかし、霊界があるか、ないかということを知らずにいます。間違いなく永生することを知るようになれば、他の人が「罪を犯しなさい」と言っても犯しません。「自分のために生きなさい」と言っても生きないのです。これを知らなければ、何の宗教を信じても、絶対に天国に行けません。神様の理想世界に行けないのです。真の愛と生命を投入しなければ、行くことができないのです。

 

10 永遠の世界で、永遠にために生きる主人がいるとすれば、永遠の主人になります。そのような方が誰でしょうか。神様です。その方は私たちの父であられるので、すべての宇宙が「私」と共にあるというのです。そこに永生があります。そうでないところには、永生がありません。それで、聖書には「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)と言いました。それは、死を超えなければならず、超えなければ生きることができないということです。

 

真の愛で永遠の生を決定

11 神様が絶対的な愛のパートナーを求めるとすれば、それは閥違いなく人間です。ですから、「万物之衆唯人最貴(マンムルチチュンユインチェキ)」という言葉が出てきました。

創造主の永遠の愛の対象になれるという論理的結論が出てくるようになるとき、その愛と一つになった愛の対象も永生するという論理が生じるようになります。永生は、自動的な産物です。永生は、ここから展開します。愛の関係を中心として、永生論理をどのように立てるかという問題は、宗教において極めて貴重です。男性に永生があり、女性に永生があるのではありません。神様に永生があるのではありません。神様の愛に永生があるのです。

 

12 人は、誰彼を問わず最高を願っています。人間が最高の立場に行くようになれば、神様は自分のものです。また、自分は神様のものです。そのようになれば、自分は神様の息子になり、神様自身にもなるので、宇宙も「私」のものになります。

神様が一番愛して、貴く考えるものがあるとすれば、それを一目、あるいは十年や百年ぐらい共に過ごしたのちに、放り投げるように造るでしょうか、永遠に共にいるように造るでしょうか。永遠に共にいるように造るのです。人も同じです。人が生まれて、死んで終わりでよいでしょうか、永生しなければならないでしょうか。永生しなければなりません。それは、人間が、絶対者の神様が絶対的な愛を中心として喜ぶことができる対象だからです。一日や二日、あるいは十年、百年喜んで投げ出してしまうのなら、それは愛ではありません。愛すれば愛するほど、共にいたいと思うのです。

 

13 人は永生しなければなりません。良い知らせでしょう?悪の世の中で八十年ぐらい生きるのですが、ありが死ぬのも人が死ぬのも違いはないと思うかもしれません。しかし、違います。人は霊物なので違うのです。

なぜ万物の霊長になるのでしょうか。老いない心のためです。万物はすべて変わります。色あせてしまいます。風化作用によって減退します。ところが、心だけは違います。変わらないことにおいて最高の権威をもっています。

Luke Higuchi