天聖経: 第157話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第六篇 真の万物

第一章 万物創造とその意味

第三節 自然探求と自然の教訓 22

第二章 宇宙の根本と秩序

 第一節 宇宙の根本と愛 1-5

22 弱肉強食は闘争の概念です。宇宙の万物世界は闘争していると言います。愛の理想の大きな目的を中心として、宇宙を動員して神様の理想的生命体の根源を造成するという概念がないというのです。堕落によってそのようになりました。闘争して発展すると考えたのです。ギリシャ哲学では、自然界を敵という概念で捉えました。そこから適者生存の論理が出てきました。適切な環境において残れなければ、生存はないというのです。それは堕落した結果です。

マルクスやレーニンは、結果的なものだけを見ました。万物の根本である人悶の心の世界を見ても、闘争しているというのです。闘争の概念が万物の中から始まったと見たので、そのようにしか結論を下すことができないのです。愛の理想を完結した実体を越え、天の国の家庭完成と天の国の王権を中心として、天地における統一された神様の安息基盤を整えるためだという概念を知らないので、闘争の概念として見たのです。

第二章 宇宙の根本と秩序

 

第一節 宇宙の根本と愛

 

1 「宇宙」と言うとき、「宇」も「宙」も家を意味します。ですから、家庭と子女を愛するのです。その伝統的思想がどこから始まらなければならないかというと、国ではなく家庭です。この家庭は、宇宙的な家庭を代表したものであり、その息子、娘は億千万年の万民を身代わりできる先祖だというのです。それが創造本然の水準です。ですから、神様が万物を造ったのは、アダム、エバを愛するためでした。アダムとエバを探し出したのちには、神様と子女が一つになって、人間のために犠牲となる万物を愛さなければなりません。

 

2 被造世界のすべてのものは、神様の愛する息子、娘が愛の理想を探し求めていけるように、教材として造ったものです。ですから、すべて相対的な構造です。鉱物も主体と対象の関係で作用します。原子もそうです。陽子と電子が主体と対象の関係で作用するのです。作用しなければ存続できないのです。運動しなければ永続、存続できません。

ですから、宇宙は、人間を中心として、その中心点に到達できるように創造された世界です。人間は、大きくなればなるほど、すべて自然を見て習得します。月が照らし、星が光る秋の夜に耳を澄ませば、昆虫がオーケストラのように演奏をしているのです。何を中心としてそのように鳴くのでしょうか。相対を探し、理想を歌っているのです。愛を中心としてささやいているというのです。鳥や他のすべての動物も悲しい鳴き声、宴びの鳴き声を愛という共通分母に従って表すのです。レベルは低く、軸から遠く離れていますが、その軸を中心として平衡を保って回っています。すべての存在はそのようになっているのです。

 

3 宇宙は第二の母の腹中です。皆さんが今暮らしている所は母の腹中です。宇宙の母の腹中で生きているのです。ですから、母親の栄要素をもらうのと同じように、宇宙のすべての津液(しんえさ)をもらって生きるのです。ですから、ここでこれを供給しなければ、多くの犠牲者が出ます。多くの犠牲を払うのです。

弱肉強食という言葉があります。「なぜ神様はそのように造ったのか」と言うのですが、それは誤った考えです。「私」がより次元の高い神様の愛の圏内に参与するのが宇宙の欲望なので、より次元の高い存在の体を通し、宇宙の愛の核の位置に帰ろう、これが願いにならなければなりません。「私」の体の細胞、人間の細胞が神様と直接通ずることのできる愛の細胞として存在しなければなりません。

 

4 宇宙の根本は何であり、宇宙は何から始まりましたか。愛から始まったのです。科学者たちは、「宇宙は力でできている」と齎います。作用するのを見て、力があると思うのです。力があれば作用をします。それでは、作用が先でしょうか、力が先でしょうか。

男性が男性として成長するときは、愛の力は作用しません。男性として作用しながら成長します。心と体が作用しながらだんだんと成人になっていくのです。そうして女性に会うとき、横的な力が生じるのです。力が現れるには、必ず作用を経なければなりません。力がある前に作用があるというのです。作用はどこから出てくるのでしょうか。主体と対象の関係から出てきます。人も心と体からなっており、すべてのものがペア・システムになっているのです。

 

5 宇宙はどのように出発したのでしょうか。相対理想を中心として創造された神様を見れば、すべてがために生きるところから、投入するところから出発したのです。自分を消耗するところから始まります。それでは、自分を消耗して相対をつくり、何をしようというのでしょうか。二つとも消耗するのですが、消耗して得るものが愛です。愛さえもつことができれば、いくら消耗してもよいというのです。そのような概念が愛なので、愛を中心として神様が創造を始めたのです。神様が損をするようなことをしたのではありません。

投入するのは損害ですが、なぜ神様はそのようにしたのかというと、愛にはすべてのものを満たして余りある力があるので、消耗させて投入しましたが、その代わりに愛を見つけてくるのです。真の愛は、投入すればするほど、次第に小さくなるのではなく、大きくなっていきます。動けば、その動き自体は投入して消耗することですが、真の愛は、投入すれば投入するほど、大きくなっていくのです。

Luke Higuchi