天聖経: 第150話

日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー

第六篇 真の万物

第一章 万物創造とその意味

 第一節 万物から学ぶ 1-9

1 先生は、自然を見るたびに、神様がこのすべてのものをどのように造ったのだろうかと深く考えました。木や様々な草、葉を見ながら、これらがどのようにして造られたのかを考えれば、限りなく神秘的です。何であれ、それに対して多くの関心をもたなければなりません。それに対する内容を知ってこそ、それを主管できるのです。

私たちが自然のもつその本然の価値だけを知っても、言葉にできない福を受けます。そうすれば、自然が「私」を中心にして造られたという事実が分かるでしょう。しかし、人々は自然を見るすべを知りません。自然は本当に神秘的です。私たちが自然を知れば、風の音も素晴らしい音楽に聞こえます。そして、信仰生活にも非常に役立ちます。私たちの体と一番近いのが自然なのです。

 

自然は第一の経典

2 あらゆるものの中で、人間が主人になっているので、万物の前に手本とならなければなりません。神様を父母として侍り、子女の立場で、天が下さったすべての万物を自らの生涯の教訓とし、そこに和合して生きれば、天地の道理に合う生活をするようになるのです。

動物は、種を保護するために、互いに協力しながら生きていきます。アフリカのしまうまは、ライオンが来れば自分の子たちを真ん中に押しやり、後ろ脚でライオンを蹴飛ばしながら保護します。ライオンも、食べる物を手に入れれば、自分たち同士で争いながらも、すべて分けて食べるのです。そのように自然から学び、自然が和合しているのと同じように生きなければならないのが私たちの人生です。

 

3 先生には文学的な素質がたくさんあります。詩的な内容を詠めば、どれほど素晴らしいか分かりません。自然には、万民が共感し、詩にできる背景がたくさんあるのです。人は環境を先に誇ったのちにこそ、自分を誇れるのです。「山が良く、水が良く、野原が良いので、その中にある私たちの家が良く、私たちの家がそうなので、私は良い人だ」と言ってこそ、理屈に合うのです。

神様は、環境を創造したのちに、アダムを創造しました。その環境の中には、主体と対象があります。自然の中には、ペアになっていない存在がありません。人間が宇宙の表象モデルになり、主人の位置に立ったということを、自然の中で感じられる人が幸福なのです。先生は原理を自然の中で見つけたのです。

 

4 先生が朝、ふと外に出れば、鳥がさえずる鳴き声が聞こえます。鳥の鳴き声は同じように聞こえますが、「なぜこのように鳴くのか」と考えるのです。一羽で寂しくさえずれば、それは必ず自分の相対を呼ぶ歌なのです。ここで鳴き声をあげれば、向こうで相手となる鳥が鳴きながら応答します。このように授け受けして、互いに会うのです。間違いなくもう一羽いるのだから出会うだろうと思えば、そのようなことが起こるのです。ですから、先生は自然を本当に愛しています。

自然に対して関心をもちなさいというのです。先生が原理を探す道において、どれほど関心をもって探し出したでしょうか。一つの問題があって、千種類、万種類、すべて比べてみれば、その中から合うものが出てくるのです。これが東でも合い、西でも合い、南でも合い、北でも合えば間違いないのです。それが原理です。

 

5 先生は名勝地に行くと、それが天の運勢を中心として、どのくらいの価値があるのかという立場で見つめます。そして、それを天の運勢と連結させるのです。ですから統一教会の草創期には、数多く山に登りました。ある国の山と地と水を見れば、その国の民族性を知ることができます。

私たちの国の水は、どこの水を飲んでも玉水です。私たちは、自然に対する復帰を先にしておかなければなりません。外国に出ていく前に、私たちの国の自然を深く愛してあげなければなりません。自分が生まれた地を愛する人が、自分の体も愛せるのです。また自分の体を愛する人が、自分の心を愛する人であり、自分の心を愛する人が、神様を愛する人です。

 

6 皆さんは修道を通して、深く奥妙な神様の心情世界に入り、涙を流しながら被造物に向かって叫べるようにならなければなりません。彼らに向かって、「私の事情がある前に、お前の事情があり、お前は私ゆえにこのようにかわいそうな立場にあるのだが、少しだけ我慢してほしい」と言える、心の姿勢をもった人にならなければなりません。これをもつためのものが修道です。

昔、祈りを捧げる人々は、自然が第一の聖書だと言いました。聖書よりは、神様が造られた自然世界を見なさいというのです。

 

自然は人間のための教材

7 自然はすべて、アダムとエバが理想的な愛を実現するための愛の標本であり、愛を教示する教材、すなわち自然博物館です。愛を教えてあげるための博物館です。それで人を完成させるのです。愛を完成させるためのものです。鉱物界も「早く愛を完成しなさい」と言い、植物界も「愛を完成しなさい」と言い、動物界もそのように言います。人間が愛を完成し、神様の愛が完成することを願うのです。

その時になれば、すべてのものが満たされた中で、愛をもって生き、一つとなれる世界になるので、それを願うのです。神様の愛の完成と同時に、人間の愛の完成、宇宙の愛の完成ができてこそ、すべてが「ああ、幸せだ!」と言えるのです。

 

8 人間が手本にする教材として展開したのが万物世界です。人間が万有の主人にならなければならなかったのですが、なれなかったという事実は、どれほど恥ずかしいことでしょうか。雄と雌の鳥が子を探し求めて鳴くのですが、そのような万物に対しても、恥ずかしい人生行路を歩む自らの生活が、どれほど矛盾した生活であるかを感じなければなりません。朝、外に出て、鳥がどこに飛んでいくのかを見てみなさいというのです。雄は雌のいる所、雌は雄のいる所、雌と雄は子たちのいる所に飛んでいきます。南米に行けば、数千羽のおうむが集まって歌を歌っているのです。そして、がちょうのようなものもそうです。からすやかささぎのような鳥も、朝に集まって宴をするのです。

 

9 最初に神様の子女として生まれたアダムとエバも、神様の保護圏内で次第に成長していくことによって知能が発達するので、神様がなぜ被造世界を造ったのかが分かるようになり、その被造世界を通して教育を受けるのです。被造世界が動かすすべてのものは、人間始祖、本来の先祖となるべきアダムとエバが、生活するのに必要なあらゆることを教えてくれる教材でした。一人の完成したアダムとエバが、理想生活を経ていく際の標本であり、一つの博物館でした。

ただそのまま成長すれば自然に愛の関係を結べるように、あらかじめ万物を通して学んでいくのです。昆虫世界を見ても、動物世界を見ても、すべてペアです。彼らが互いに与え合い、相対のために生き、相対を呼び求めながら、相対を愛しながら生きる環境を目にするので、物心のついていないアダムとエバであっても、知能が発達するに従って、世の中の道理を次第に悟っていくというのです。それによって、成熟すれば成熟するほど、知覚が愛に接近していくのです。そうして愛を知るときには、すべてのことに通じます。

Luke Higuchi