天聖経: 第310話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第十篇 平和思想
第二章 平和はどのように成されるのか
第四節 世界の平和 38-42
第三章 世界平和の実現方案 1-2
38 人類の根本は父母です。ですから、皆さんは、情緒的な面において、神様の心情を中心としてあらゆる生死の起源を立てなければなりません。それが人間としての必然的で、絶対的な要件です。そのような要件を備えて世界を考え、自らの一生を生きていく人がいるならば、その人は「天宙主義」に属した人です。そのような人は、たとえ大韓民国で生きているとしても、「天宙主義」に属した人だというのです。
「天宙主義」の主権が立って、世界のすべての人々が「天宙主義」の世界に属するようになる時、その主権が立つまで迫害されていたその人々は、天地が歓迎する中で賞を受けるようになるでしょう。その賞を受けた人々は、新しい地上天国で生きてから、永遠の天国に入るのであり、その子孫は地上で永遠に残る天の民になるのです。そこが正に私たちが行くべき終着点です。ですから、その基準を訪ねていかなければならないのです。
39 統一教会は、地上の人類を救うことはもちろん、今までこの地に来てから霊界に行って地獄に捕らわれ、地獄の鎖につながれている霊人たちまで解放しようというのです。これが統一教会の理念です。ですから、「天宙主義」を論じてきたのです。それは、ある法的条件をもってできることではありません。神様を泣かせることができ、神様の心情を通して神様の中にある、歴史的なあらゆる恨を解怨成就できる孝子が現れるまでは、不可能です。
そうかといって、孝子だけでできるものではありません。そのような家庭が現れて、「神様、イエス様が個人的な息子として人類を許されましたが、神様の息子、娘が夫婦となって家庭をつくり、一つになって贖罪の祭物を捧げる立場に立ちましたので、霊界に行っている霊人たちまでもお救いください」と言ってこそ、そのことが可能になります。家庭が一つになってこそ、霊界と肉界の全般的な人類を解放できるのです。
40 人間が求める最後の時代は、情的な主義の時代です。人情ではなく、天情に通じることのできる情的な主義の時代です。私たちは、その時代を考える必要があります。いくら優れた何かをもっているとしても、必ずそのような時代が来てこそ、歴史が解決されるのです。
このような世界的終末時代が来るのですが、宗教理念をもった世界的宗教をよく見てみると、キリスト教がこれをよく看破してきました。それでは、そのキリスト教の情的な基盤は何でしょうか。
「私は花婿であり、あなたがたは花嫁である」という立場で、新郎新婦の横的な関係を立てたその主義、「神様は父であり、私は息子である」といって、父子関係を結ぶことができたその主義、万民が兄弟だとして、全世界の人類を兄弟として結びつけることができたその主義は、観念主義ではなく、良心を乗り越えた情的な主義です。この時代は、天情に通じることができる「天宙主義」時代なのです。
41 今日のこの時代には、世界主義よりも大きな「天宙主義」の理念が現れなければなりません。「神主義」が現れなければなりません。そうして人間がこの地で生活する上で、その「神主義」を中心として、心と体が天の心情と通じることができる確固とした基準を立てなければ、私たちは幸せに暮らすことができません。
ですから、私たちは、生活圏内でその理念を中心として心と体が安息し、楽しむことができると同時に、その理念を通して歴史的な神様の心情、時代的な神様の心情、未来的な神様の心情を体恤しなければなりません。そうして、世界の前に宇宙史的な最後の贈り物として立たなければならないのです。
この贈り物の最後の目的は、地を治めることではありません。この世界を基盤として無限の世界を抱き、最後には神様を抱くのです。これが最後の目的です。神様を抱くこと、神様を私のものにするのです。
42 韓半島の葛藤は、先進国と後進国の間の葛藤だけでなく、東西文化の葛藤までもよく現しています。ですから、韓半島の統一は、世界平和と不可分の関係にあるだけでなく、未来の世界の問題を解決するのに重要な方向性を提示する指標になるでしょう。今日の世界は、霊的な大覚醒が必要な時を迎えています。個人や国家や世界のすべてが、神様の実存に対する新しい理解だけでなく、神様と人間が再び出会い、離れようとしても離れられない本然の関係を再び取り戻さなければなりません。このために提示されたものが、先生が教え導いた真の愛を中心とする「神主義」なのです。この「神主義」は、左翼でもなく右翼でもない「頭翼思想」なのです。
第三章 世界平和の実現方案
第一節 宗教による世界平和
1 宗教は、世界的なものです。人類の基盤の上に平和の土台をつくって、人類が共に暮らそうというのです。ですから、宗教は世界平和を指向します。
世界平和は、人間だけを中心とした平和ではありません。神様が喜ぶことができなければなりません。神様が望む平和の基準と人間が望む平和の基準が、一致する立場でなければなりません。
何を中心として一致するのでしょうか。世界の人を中心としたものではありません。神様を中心としたものでもありません。神様も統治したいと願い、人も統治されたいと思う一つの道がありますが、それが愛の道です。今まで神様の恨は、真の愛による支配を受け入れられなかったことです。真の王として末端の民がそのような真の愛を受け入れたとすれば、末端の民を必要とする神様です。その愛は、通過できないものがありません。隔たりがありません。光と闇、前と後、左右は、すべて分かれていますが、愛はこれを、すべて通過することができるのです。
2 今日、私たちが見る宗教の歴史は、博愛主義が中心の思潮です。宗教は、広い意味で神側を中心とした主流なので、愛を語り、慈悲を語り、公義を語り、善を語る立場にあります。ですから、それは、自己の野望を拡張しようとするのではなく、公的な利益に符合する自分のすべての素性を悪の世界に投入して、悪の世界を天の側に移そうというものです。それは、悪を中心として争うのではなく、善を中心として和平を企図し、平和を企図し、和解の雰囲気を造成するためにするのです。
この悪の世界に対峙していくために、結局、宗教世界は、新たな投入をしなければなりません。新しい何かを投入することによって、環境が自分によって影響を受けるようにしなければなりません。「投入しなさい」と言うのではなく、お互いが投入していくところにおいてのみ、和睦と和合と平和をもたらすことができます。これが、善の歴史性を備えた宗教が歩んできた背後にある、主流思想なのです。