天聖経: 第256話
日本語のオーディオはしばらくの間、お休みさせて頂きます。皆さんご迷惑をお掛け致しますが、各自訓読なさるか、もしくは、英語版を聴きながらの訓読の程、よろしくお願い致します。ーゴデイブルチームー
第八篇 信仰生活と修練
第四章 真の父母の人生から見た信仰者の道
第四節 相続の人生2-13
み旨一筋の人生
2 家庭で父と母に侍って暮らしたくないと思う人がどこにいますか。自分の子女を懐に抱いて眠りたくないと思う人がどこにいますか。また、そのような立場で神様に侍りたくないと思う人がどこにいるのでしょうか。先生もそうしたいと思うのです。しかし、そのようにしてはみ旨が成就されないので、悲惨な道を経てきたのです。
先生がそのような道を歩んできたのは、私自身のためではありません。天倫のみ旨を立てるためでした。伝統を立てるためでした。そのような責任があったので、私の体に傷ができ、顔が憔悴しきっても、あるいは人々からつばを吐かれるひどい立場に立っても、それが問題ではありませんでした。たった一つ、この体が死ぬ前に、いかに伝統をこの地上に残しておくかということが問題でした。そうでなければならないというのです。
いくら暴風雨が吹き荒れる環境に置かれても、いくら物乞いのようなかわいそうな立場に置かれても、いくら民族の反逆者だという言葉を浴びせられ、囹圄の身になっても、それが問題にはなりませんでした。ただ変わらない天の伝統を残そうというのが、今までの先生の生涯だったのです。
3 統一の道と関係を結んでいるがゆえに、私たちが行く道は涙の道であり、血と汗の道です。神様の悲しい事情と向き合うときは、涙なくして向き合うことができず、悲惨なその消息と向き合うときは、血がほとばしらざるを得ません。先生は、自分の血肉のすべてを捧げても、神様のその悲しみを解消するためには、何であってもすべてしてさしあげたいと思います。数千万の弟子たちを犠牲にすることになっても、そのみ旨を成し遂げるためには、何でもすることができます。
だからといって、皆さんを愛していないのではありません。愛しているがゆえに、統一教会を中心として、皆さんを僕として涙と血と汗を流すようにさせ、養子として、あるいは直系の子女として歩んでいくようにしているのです。直系の子女として、死の場を躊躇せずに行くことができる人になってこそ、来られるその方の実体的な十字架の路程を代わりに担うことができるのです。
神様が今まで私たちの先祖を立てて蕩減復帰の使命を果たさせたように、実体的な真の父母にも、愛する子女を立てて世界的な蕩減路程を開拓すべき使命が残っています。ですから、一つの民族が完全に復帰されるときまでは、これを継続しなければならないのです。
4 宇宙の頂点は、世界人類が一つの一族だというものです。ですから、人類は、愛の網袋の中で絡み合う中を、自分のための愛ではなく自分より家庭をもっと大切にする愛を求めていかなければなりません。
また、家庭よりも氏族のための愛を求めていかなければならず、氏族よりも民族のための愛を求めていかなければならず、民族よりも国家のための愛を求めていかなければならず、国家よりも世界のための愛を求めていかなければなりません。それがみ旨の行く道であり、愛の行く道です。
忠臣は、国のために自分個人を無視し、自分の家庭を無視し、自分の氏族を無視して進まなければなりません。それが忠臣の道理です。
また、孝子は自分の一身を無視し、自分に属する妻子を無視し、父母の意向に従っていかなければなりません。それが孝子の道理です。ですから、み旨が行く道は、愛が行く道です。「私」個人よりも大きなことを先に愛する道が、み旨の行く道であり、愛の行く道なのです。
5 私たちは、今、神様の懐に戻ることのできる近い距離にあります。ですから、私たちは、「私」自身がどのようにすべきなのかを考えなければなりません。私たちがみ旨を知って行くこの道は、私が救われて祝福を受けるために行く道ではありません。それはみ旨ではありません。み旨に従いながら私が家庭を必要とするのは、世界人類に貢献できる家庭をつくるためであり、氏族を必要とするのは、民族と国家と世界に貢献できる氏族をつくるためです。ですから、そのような立場に立って、この思想と一致して動くことができなければならないのです。
6 統一教会の教会員たちが行くべき道は、どのような道でしょうか。国のために闘うことも必要であり、国のために自分の位置を守ることも必要かもしれませんが、それよりもっと問題になるのは、「私」自身は、どのようにイエス様を身代わりした立場に立つかということです。歴史過程で神様の息子として遣わされたイエス・キリストが、神様と一つになった基盤の上で成し遂げようとしたことを成し遂げられなかったので、今日、私たち各個人がこれをもう一度再現させて成し遂げなければなりません。イエス様が成し遂げられなかったその内容を、私たちの一代に結びつけて成し遂げることのできる基盤を準備しなければ、神様のみ旨は進展することができません。
7 私たちは、私たち自体を歴史的な復活の実体として運行できるようにしなければなりません。七十年、八十年の一生を自分のために生きるのではなく、摂理のみ旨から見て、永生の路程を経て発展できるみ旨を立ててきたのが神様の摂理なので、そのみ旨と共に生きなければならないというのです。「私が生きるのは、み旨を現すためであり、み旨のために生きることなので、み旨が行く道は、私の生命の延長であり、私の理念の延長であり、私の生活の延長だ」と称賛できる人格を中心とした生活舞台をどのように広げるか、ということが重要な問題なのです。
8 「私」が本の一ぺージを見ても、神様の摂理のみ旨がここから開門することを考え、そのような深刻な立場でその本の一ページを通読する人は、神様が必要なことを、準備する人であることは間違いありません。神様は、そのような人を選んで用いるのです。
9 「私の悲しみを解いてほしい」というのが神様の第一の願いです。そして、二番目は「私の苦痛を解いてほしい」ということです。それでは、誰がその願いをかなえてあげるのでしょうか。神様御自身には解くことができません。それは、相対的に食い違ったことなので、神様御自身が解こうとしても解くことができません。私たちが解いてさしあげなければなりません。
ですから、他の道はないのです。「ただ神様のために千回でも万回でも死のうという、神様が願う人たちのために私が犠牲になろう」という、それしかありません。そのような深い内容を中心として語らざるを得なかったので、聖書には「自分の命を救おうとするものは、それを失い、それを失うものは、保つのである」(ルカ一七・三三)とあるのです。この逆説的な話は妥当な話です。
10 皆さんが行くところには、ありとあらゆる事情が多いのです。血を売ってでも伝道に出ていかなければならず、行く旅費がなければ千里の道もいとわずに歩いていかなければならず、自らの一片丹心を決めたみ旨に向かって山を越え、野を横切り、冒険をものともせずに行かなければなりません。先生が望むのは、皆さんがそのような立場で倒れても、天を恨んではいけないということです。皆さんがそのような立場で犠牲になっても恨んではいけないというのです。
天国建設のかがり火を持って立ち上がった勇士なのに、どうして矢が飛んでくることがなく、どうして敵が包囲しないでしょうか。そのようなことがあるというのです。しかし、師のために生き、神様のために生きる心は、自分のためでなく、民族のためであり、世界のためです。ですから、そのみ旨に対して歩んでいく道は、死の道も喜んで訪ねていくべき道であり、それが統一勇士が行くべき道なのです。
11 皆さんは、み旨を知ったので、行く途上において後退できません。天のみ前に忠臣となり、孝子、孝女になるためには、天が行く前に、「私」が先に立って行かなければなりません。それが復帰の道であることを知ったので、「今まで個人的な十字架の道を、私が知らない時に行ったのが悲しい。家庭的な十字架の道を私が知らない時に行ったのが悲しい。氏族的で、民族的な十字架の道を私が知らない時に行ったのが悲しい!もう分かったので、この恨まで添えて、国家的な十字架を私が背負おう」と言わなければならないのです。
12 先生の一生がそうです。み旨を抱いた男の行く道は、悲惨であればあるほど価値があります。先生に何がありますか。何もありません。何もないと考えるのです。すべて置いていくのです。
先生がしたすべてのことは、後代のために、統一家の世界のためです。世界の人たちが愛すべきことを残していくのです。先生が愛し、先生の息子、娘が愛すべきものを残そうとは考えないというのです。
神様の栄光のための人生
13 皆さん自身が神様のみ前に、「私を中心として蕩減をしてください」と言ってこそ、蕩減になるのです。神様に祭物を捧げるときも、神様が「捧げなさい」と言って祭物を捧げることで終わるのではなく、自発的に祭物を捧げることができなければなりません。神様が「祭物を捧げなさい」と言って捧げるのは、蕩減するための祭物ですが、自分が自発的に捧げる祭物は、栄光を受けることのできる条件になるものです。