5. 摂理的準備時代と聖婚式

南下と摂理的準備時代

私たちが腹中教に通っていた頃、日本に留学していた母方の叔父の洪順貞さんが帰ってきて(韓国の)軍に入隊しました。叔父は知識人でありながらおしゃれな方でした。叔父が軍隊にいた時、母方の祖母がその叔父にとても会いたいというので、祖母と大母様、そして私の3人で「叔父に会いにしばらくの間行ってくる」と言って南下し、そのまま南に留まることになりました。私たちが南下した当初は、ソウルの孝昌洞にいました。ですから私は孝昌初等学校に入学しました。

趙おばあさんはいつも私と一緒にいらっしゃったのですが、おばあさんと一緒に道を歩くと人々は私のことをとてもかわいらしいと言ってかわいがってくれました。ですから、他の人々はなかなか歩き回ることができなかった時代でしたが、私はあちこち歩いて人のお使いもしたりして、とても愛されました。南の韓国に下りてくる途中でも、女性だけの一行であり、子供だった私がいたので、無事に南に越えてくることができました。

私はかわいらしく端正だったので、行くところどころで周りの人たちに愛されて育ちましたが、もし私が早くに婚姻しなければこの世に奪われる余地も大きかったので、天は、そうなる前に幼くして聖婚させて私を抱かれたのではないかという思いもします。

私が8歳(数ぇ)の時、朝鮮戦争が起こりました。ソウルにいたのですが、戦争から避難することになり、その際に母方の叔父が助けてくれました。大母様が主に会うことだけを考えながらいつも精誠を尽くしておられた折に、軍隊にいた叔父が「漢江の橋が断たれる」という情報を入手したのです。それである日、スリークォーター(積載量4分の3トンの軍用車)に乗ってきて、祖母と大母様、そして私を乗せて(漢江の)南へと避難したのです。

漢江の橋を渡ったのですが、叔父は私たちに橋を渡ったらすぐに車から降りるように言いました。私たち一行は叔父の言うとおりに車から降りて身を伏せたのですが、その瞬間に漢江の橋が崩壊しました。その時、漠江の橋を渡っていた多くの人々や軍人が川に落ちて命を落としましたが、幸いなことに私たち一行は叔父の助けで命拾いをしました。

私の年齢ほどの韓国人の多くは戦争と苦難の受難時代を経験しましたが、常に私はすべてにおいて天が守ってくださったおかげで無事に過ごすことができました。朝鮮戦争の時も、大きな災いもなく無事に過ごすことができました。避難中に私が風部を引くと大母様は飴をなめさせて咳が鎮まるようにしてくださり、けがした時には膿が引くように、サボテンと御飯をつぶし、それを傷口に塗って治してくださったことを覚えています。(1999.10.21、ウルグアイ、プンタ・デル・エステ)

今日私たちが目で見ているものがすべてではありません。今から1950年にさかのぼってみると、その頃の韓国では朝鮮戦争が起こりました。南の端まで押されていたところ、国連軍の助けで北上するようになったのですが、国中が廃墟となりました。当時の一般人の生活がどれほど厳しかったか分かりません。一日の食事もままならない状況でした。それほど困難な環境でした。

当時は韓国にキリスト教が入ってきてから約100年ほどだったので、ほぼ儒教と仏教の文化でした。ですから僧侶がたくさんいました。ある日、私を見た一人の僧侶が大母様に「あなたの娘か」と聞くのでそうだと答えると、「10人の息子もうらやましくないような娘なので、しっかりと育てなさい」と言いました。また、「この娘は幼くして結婚することになるが、その相手となる人は年が少しいっている人であろう。陸、海、空を支配する、そのようなオカをもった人物である」と言いました。

今となってはとても感慨深い話ではありますが、50年前を考えると、それが想像もつかず、空の星を取ることよりも難しいと思うような時でした。その時に通りがかりの僧侶が予言したことが、今日成就しているのです。(2007.5.1,日本、福岡)

大母様は、お父様にお会いしてから春川で牧会をなさり、私はそこの鳳儀初等学校を卒業しました。私がその学校を卒業する頃に按手事件が起き、大母様が収監されることになりました。その時が中学校の入学試験を受けなければならない時期でした。しかし、大母様がいらっしゃらなかったので試験を諦めていたのですが、ちょうどソウルにいた母方の叔父がそれを聞き、春川に来て、私をソウルに連れていって入学試験を受けさせてくれたのです。すでに前期の新入生募集は終わり、後期が残っていたので聖貞女子中学校(現•善正中学校)で入学試験を受けて合榕しました。私が聖貞中学校に入学したのをきっかけに叔父の住んでいた新堂洞に引っ越すことになりました。

復帰摂理の路程において女性の役割がとても重要です。特に母の使命を準備するために、天は人知れずサタンの讒訴を受けない限度内で苦労の路程を導いてこられたのです。趙元模おばあさんと洪順愛大母様は再臨の主をお迎えするための準備と信仰で、生涯にわたって一貫した生活をなさいました。この世と妥協することなく、安逸な家庭環境の中での型にはまった信仰ではなく、24時間完全に天の前に奉仕して、主を迎えるための準備に精誠の限りを尽くされました。

大母様はそのような信仰生活ゆえに、ほとんど家にいらっしゃらなかったので、私は幼い頃、母方の祖母と過ごすことが多かったです。それで、趙おばあさんを通じて自然と、当然のごとく信仰を受け入れるようになったのです。祖母は私について天のみ旨を何か御存じだったのか、とにかく私がこの世に染まることなく純粋に育って、天の前に用いられる貴い娘として成長するように誠意と努力を注がれました。

祖母はいつも私に、「あなたの父親は父なる神様だ」と言われました。その記憶しかありません。「父なる神様があなたのお父さんだ」とおっしゃったのです。ですから、父親というと肉の父親のことを考えるのではなく、いつも天の父のことを考えていたので、神様のことを考えると常に温かい感じがして、外的に見れば人にはなかなか理解されにくい環境で育ちましたが、特に不平不満はありませんでした。何かがいつも私を覆ってくれているような温かい感覚で過ごし、いつもゆったりとした心で過ごしました。

大母様や袓母に、実の父についてや、二人がどうしてそのように暮らしているのかについてあれこれ質問することは全くありませんでした。そのままの生活に満足して暮らしました。両親に対する恨みや反発感のようなものは私の人生において全くありませんでした。2000年前のイスラエルでも主を迎えるための内的な準備が多くあったように、解放(終戦)前の韓国でも再臨主をお迎えするために準備していた団体が多くあり、復帰摂理の役事を内面的にしてきた団体も多くありましたが、祖母と大母槺はそのような団体を訪ね回りながら、世の中と妥協することなく、ひたすらみ旨のために、ひたすら主を迎えるその日だけのために生きてこられました。

結局そのような信仰が私をここまで導いてくれたようです。常に深い信仰生活をされました。常に好別された端正な生活、清い生活をされました。生活はほとんど大母様から学びましたが、趙おばあさんもそうでした。趙おばあさんは、お父様と私が聖婚した後に亡くなりましたが、霊界に行ってからも、仏教界で霊験の高い菩薩の尹清淨心氏に現れて、「時が来たので昔の王様が王位に就く時に着る服を作るように」と言ったことがありました。結局、尹清淨心氏はそれを作ることができずに霊界に行きました。また、祖母は「お父様は万王の王である」と言われ、時局が変わるたびに、「あの位置がお父様の位置だ」と証したりもしました。(1999.10.21、ウルグアイ、プンタ.・デル・エステ)

私は学校に通っていた時、外を出歩くのを好まず、運動するのを避けながら静かに読書を楽しみました。そして、どの学较に行っても先生から愛され、保護されました。わりとまじめなほうだったからか、先生たちはよく面倒を見てくれました。また、先生から、「お前は近頃の子供らしくない。外に出てみなさい」と言われましたが、悩みがあるからというわけではなく、ただじっと座って静かにしているのが好きだったのです。

思春期のような成長期にも、私は生きることについて悩むことはありませんでした。祖母や大母様が常に天に仕えて生活する信仰を植え付けてくださったからです。ときどき『テス』などの小説を多く読み、のちに気の合う友人と田園生活をしながら暮らしてみたいとも考えました。

聖婚後は学生時代について考えなかったので、特に記憶はありません。考える暇がありませんでした。最近になって時々訪ねてくる友人がいるので、その頃の記憶が少しよみがえることもあります。最近、女性連合の大会の時に私を訪ねてきた友人がいたのですが、中学校の同期のオ•グアンジャという友人です。同じ町内に住んで一緒に学桉に通ったのですが、その友人のお父さんが私のことをとてもかわいがってくれました。また、高校の1年先輩のへレン•キム(HelenKim)という人がいるのですが、彼女のお母さんは私を見て端正でかわいらしいと言って関心をもってくれました。ヘレン•キムは最近までカナダに住んでいて、時々私に手紙を送ってくれたり、会ったりもしました。大会があるたびに参加していると聞いています。

善正学校を引き継ぐ際に、その学校に行ってみたところ、当時の国語の先生がおられました。その国語の先生の顔が記憶に残っていました。また、作曲家の李興烈先生の弟子である数学の先生が私のことをとてもかわいがってくださいました。1960年代までは衣服で全身を覆うようにほとんど外に現さない生活をしました。天が私をこの世と妥協しない生活に導かれたので、小ぢんまりとした生活環境の中で暮らしました。神様は、私がサタン世界の空気を吸うことさえ好まれないほど、徹底して保護してくださり、そのような環境の中で私自身の思いはすべてなくし、天に導かれる生活だけをしました。

また、いつも日記を書いたのですが、不思議なことに、何も考えずに書いたのが「私たちの願いは統一」という言葉など、大概そのような言葉でした。穫日、お父様のみ言を聞いて、そのようなことが意味あるものとして思い出されました。(1999.10.2hウルグアイ、プンタ•デル•エステ)

文鮮明総裁との出会い

入教前の大母様は、主に出会うその日を目標として、いつも伝道をされました。祖母と私の世話をしながら避難生活をしている中で、大邱で聖主教の食口である鄭錫天長者の家族に会い、そこで数年間、生食をしながら生活しました。そのうち、鄭錫天長老の弟の鄭平和氏を訪ねて済州島へ行き、数力月間、生食をしながら過ごしました。その後、春川に来たのですが、大邱にいた鄭錫天長老から「おかしな先生が来られた」という知らせを聞きました。大母様は、「おかしな方であれば、おそらく私たちが探し汞めてきたその方かもしれない」と思って大邱に行かれたのですが、会うことができず,再びソウルに来て靑坡洞にいらっしゃったお父様にお会いすることができたのです。(1999.10.21、ウルグアイ、プンタ•デル•エステ)

私は北朝鮮ではお父様に出会うことができず、韓国に下りてきた搔、ソウルで初めてお会いしました。その時、私は14歳(数ぇ)で、小学校を卒業した直後でした。当時は母と共に入教してそれほど経っていない時だったのですが、それまで多くの困難な道を歩んできたので、未来に対する確信をもつこともできませんでした。特に1960年代は、いつどんなことが起こるか兌からない時でした。

私が初めてお父様にお会いした時、お父様は私を見た瞬間に目をつぶって瞑想なさった棲に、心の中でささやくようにおっしゃいました。「名前は何というのか」とおっしゃるので、「はい、私は韓鶴子と申します」と答えました。するとお父様は、「ああ、神様!韓鶴子というこのような素晴らしい女性を韓国に送ってくださり感謝します」とおっしゃいました。その瞬間、お父様は瞑想してほとんど独り言のようにおっしゃったのですが、私にはそのように聞こえました。その時はお父様が私の前途について特別な啓示を受けておられるような感じを受けたので、多少不思議に思いました。

その頃、私は韓国の北東部にある春川に住んでおり、お父様はソウルの教会本部におられ、春川とソウルとの距離は遠く離れていました。私はお父様との出会いの後に教会に通いながら中学校を卒業し、高校に入学しました。(1977.5.3、ベルべディア修練所)

聖婚日の1力月ほど前に、お父様が夢に現れて、神様からその日が近づいたので準備せよという特別な啓示が降りました。

その時、私はそのような大きな事に対して正否の判断をする能力がなかったので、無我になるしかありませんでした。そして祈祷せざるを得ませんでした。「これまでも私はみ旨のとおりに生きてきました。これから神様のみ旨が何であろうと、神様の摂理の目的が何であろうと、私はあなたの娘としてどんなことでも命令どおりに従ってまいります」と、啓示に射して私の心を応苔してみせました。私が18歳(数ぇ)だった春の2月頃でした。私は完全に無我の立場となって準備していました。神様のみ旨どおりに完全に身を捧げることを願いました。

当時、私の性格はおとなしいほうであり、安らかで静かな雰囲気の中で読書や音楽を好む性格として周りの人々に知られていました。またかなり知的な女学生としても知られていました。きわめて感情的でもなぐ激することもなぐ常に理性的であり、初めて会う人には冷たい印象すら与えたことでしょう。

その当時の私の生活は、ほとんど修道女のようなものでした。男性と共に活動することは一切避けており、まるで温室の中で咲いた一輪の花のように、完全に外界の環境から自分自身を隔離していました。今になって、それがいつか主にお会いし、主の新婦となる者として聖別するための天の準備だったということを知りました。

本来の性格も外向的ではなく、いつも世の中から離れて自分自身の世界を楽しむほうでした。そして男性に対しては完全に無視するかのように行動し、周囲にいる青年や男性に対して私のほうから先に目を向けることもありませんでした。男性を見ただけでも何か恥ずかしぐ純粋さを失うかのように感じられたからです。(1977.5.3,ベルべディア修練所)

聖婚式と新たな覚悟

天は、義人を通して再臨のメシヤを遣わし得る環境圏をつくってくださいましたが、キリスト教はそのような神様の摂理が分かりませんでした。しかし、1960年4月11日は、原罪なく生まれた独り子と独り娘が万難を克服し、天のみ旨に従って「小羊の婚宴」を挙げた日です。天にとっては栄光の日であり、人類にとっては喜びと希望の日となったのです。(2017.4.12,天宙清平修錬宛)

私は18歳(数ぇ)の時、天の召命を受けて進み出る時に洗心しました。「私でなければ、この残忍で恨み多き蕩減復帰の摂理歴史を終わらせることはできないので、私は必ずや勝利しなければならない」と誓いました。それが1960年の真の父母様の聖婚式の時でした。

皆さんは講義を通じて学んだでしょう。皆さんは「原理」を通じて「真のお母様の7年路程」という言葉を聞いたことでしょう。その7年路程というのは、過去にエバが失った6000年の摂理歴史を蕩減復帰し、勝利した土台をつくる道でした。それをお母様が完成することができなかったら、「神の日」は設定されなかったでしょう。誰もお母様の役事を代わりにすることはできません。

それゆえ、摂理的に私がするべきことを先頭に立って実行してきたのです。皆さんは、基元節といえば13日であることを知っています。なぜ「神の日」があるのに、基元節を13日に決められたのでしょうか。この13数が重要なのです。神様の天地創造と関連して、聖書の初めに「夜になり、朝となった」とあります。摂理歴史は12日の創造と13日を迎えた安息を含めて13数が重要なのです。この失われた13数を探し立てなければならなかったのが真の父母様の摂理歴史です。

それゆえ、私一人の身で一つの血統の子女を、13数を超える14人の子女を誕生させました。特に旧約摂理の歴史では、数字で語られているところが多くあります。それを私は、「真の母として統一した、一つにした」と言うのです。これが偉大なお母様の業績なのです。(2015.10.9、天正宮博物館)

イエス様以降、今までの2000年の歴史は、独り娘を探し汞めてきた歴史です。そのように天は6000年という時間を通じて真の父母を探し求めてきたのです。独り娘を探し求めてきたのです。1960年度は実に天地が喜んだ時であり、万物が喜んだ時であり、神様が待ちわびてこられた時です。しかし、現実はどうだったでしょうか。天の王子と王女でしたが、最も低い位置から出発しました。(2014.7.1、天正宮博物館)

神様のみ旨は、再臨主をこの地に送り、その方を通じて創造本来の目的を全体的に成就しようということではないでしょうか。ですから再臨主は、人類会体を神様の前に導くべき使命をもって来られる人類の真の父母だというわけです。

神様が、様々な面でこの地上に真の父母の名を毙表するまで、言葉にできない苦難の路程を歩んでこられたことを、み言と歴史的な事実を通じてよく知っていることと思います。人類を救うために来られるメシヤ、すなわち真の父母は、神様の創造目的である天国を建設する使命をもった方であり、その天国は地上にまず成し遂げられなければならないので、それが地上天国なのです。(1986.8.20、ベルべデイア修練所)

皆さんがみ旨の前や天の前に精誠を尽くしたことは天が記憶してくださいます。それゆえ、私はお父様に出会うとき、すべてを知りました。そのように創造された環境の中で生まれ育ったので、私が果たすべき使命、私が成すべき使命を知ったということです。私が18歳(数ぇ)の時にお父様に出会い、「天の蕩減復帰は私の代で完成する。私が終わらせる。終わらせて、新たな時代を開く」と洗心したのです。それが、私が18歳でお父様と結婚した時に考えたことです。そのように生きてきました。(2012.12.25天正宮博物館)

Luke Higuchi